遠くなるのを見送って、又次郎は欅《けやき》の大樹のかげを窺うと、そこにはもうお蝶の影はみえなかった。地蔵の前に線香も寒そうな灰になっていた。

     五

 お蝶は乱心しているのであると、又次郎は帰る途中でも考えた。和田の屋敷の近所に魚住良英という医者が住んでいる。本草学《ほんぞうがく》以外に蘭学をも研究しているので、医者というよりもむしろ学者として知られていて、毎月一度の講義の会には、医者でない者も聴きに行く。又次郎も友達に誘われて、その門を五、六回もくぐったことがあった。そのあいだに、良英はある日こんなことを話した。
「世にいう狐|憑《つ》きのたぐいは、みな一種の乱心者である。狐は人に憑くものだとふだんから信じているから、乱心した場合に自分には狐が憑いているなどと口走るのである。したがって、乱心者のいうことも周囲の影響を受ける場合がしばしばある。たとえば、あるところで大蛇《だいじゃ》が殺されたとする。その大蛇はおそらく祟るであろうと考えていると、そのときにあたかも乱心した者は、おれは大蛇であるとか、おれには大蛇が乗り移っているとかいうようなことを口走る。そこで、周囲の者もそれを信じ、それを恐れて、大蛇を神に祭るなどということも出来《しゅったい》するのである。」
 又次郎は今その講義を思い出した。お蝶もそれと同様で、かれはこの頃にわかに乱心した。それがあたかも鷲撃ちの時節にあたって、周囲の者がしきりに鷲の噂をしている。一昨年以来撃ち洩らしている尾白の大鷲の噂も出たかも知れない。あれほどの大鷲は和田さんでなければ仕留められまいなどと言った者もあるかも知れない。ことにお蝶の姉は和田の屋敷に奉公している関係から、その両親はことしの鷲撃ちについて非常に心配している。どうぞ旦那さまに手柄をさせたいとか、尾白の鷲を旦那さまに撃たせたいとか、かれらは毎日言い暮らしているかも知れない。現に先月もそれがために、お蝶は母と共に川崎大師へ参詣したくらいである。その時のおみくじに凶が出たとかいうことも、お蝶に何かの刺戟をあたえたかも知れない。
 こう考えると、別に不思議はない。お蝶がたとい何事を口走ろうとも、しょせんは周囲の影響をうけた結果に過ぎないのである。自分は臆病者でないと信じていながら、一時はなんとなく薄気味悪いようにも感じさせられたのは、われながら余りにも愚かであったと、又次郎は声をあげて笑いたくなった。
「それにしても、お蝶は可哀そうだ。」
 世に乱心者ほど不幸な人間はあるまい。ましてそれが自分の屋敷の奉公人――今では単なる奉公人ではない関係になっている――お島の妹である。それを思うと、又次郎はふたたび暗い心持になった。彼はむやみに笑ってはいられなくなった。お蝶が乱心していることを、その両親の角蔵やお豊が知っているのであろうか。知っているならば、迂濶《うかつ》にひとり歩きをさせる筈もあるまい。あるいは両親がわたし達の宿へ挨拶にきた留守のあいだに抜け出したのか。
「なにしろ、たずねてみよう。」
 お蝶が乱心者と決まった以上、いずれにしても相当の注意をあたえて置く必要があると思ったので、又次郎は草鞋の爪先《つまさき》をかえて、海ばたの漁師町へむかった。けさから一旦衰えかかった木枯しがまたはげしく吹きおろしてきて、馬の鬣髪《たてがみ》のような白い浪が青空の下に大きく跳《おど》り狂っていた。尾白の大鷲はこの風に乗って来るのではあるまいかと、又次郎はあるきながら幾たびか空を仰いだ。
「角蔵はいるか。」
 表から声をかけると、粗朶《そだ》の垣のなかで何か張物をしていたお豊は振りむいた。
「あれ、いらっしゃいまし。」
 迎い入れられて、又次郎は竹縁に腰をおろした。
「風がすこし凪《な》いだので、角蔵は沖へ出ましたが、また吹出したようでございます。」と、お豊は言った。「いえ、もう、冬の海商売は半休みも同様でございます。」
「お蝶はどうした。」
「さっきお宿へ出ました留守のあいだに、どこへか出まして帰りません。」
 果たして案《あん》の通りであると、又次郎は思った。
「お蝶はこのごろ達者かな。」と、彼はそれとなく探りを入れた。
「はい。おかげさまで達者でございます。」
「別に変ったこともないか。」
「はい。」
 母はなんにも知らないらしいので、又次郎は困った。知らぬが仏とは、まったくこの事である。その仏のような母にむかって、おまえの娘は乱心していると明らさまに言い聞かせるのは、余り残酷のような気がしてきたので、彼はすこしく言いしぶった。お豊にたずねられるままに、彼は江戸の噂などをして、結局肝腎の問題には触れないで立ち帰ることになった。
「角蔵にもし用がなかったら、今夜たずねてくるように言ってくれ、少し話して置きたいことがあるから。」と、又次郎は立ちぎわに言った。
「かしこまりました。」
「忙がしいところを、邪魔をしたな。」
 出て行こうとする又次郎を追いかけて、お豊はささやいた。
「さっきも申上げました通り、大師さまのおみくじには凶というお告げがございましたから……。どなたにもお気をお付け遊ばして……。」
 おみくじに偽《いつわ》りがなくば、ひとの事よりわが身のことである。おまえは自分のむすめが乱心しているのを知らないかと、又次郎は口の先まで出かかったが、やはり躊躇した。彼はただうなずいて別れた。
 老巧の弥太郎のいう通り、さすがの荒鷲も青天の白昼には余りに姿を見せないで、多くは早暁か夕暮れに飛んでくる。殊に雁《がん》や鴉《からす》とはちがって、いかにそれが江戸時代であっても、仮りにも鷲と名のつくほどのものが毎日ぞろぞろと繋《つな》がって来る筈がない。けさ三羽の仔鷲が相前後して飛んできたのは、一季に一度ぐらいの異例といってよい。それを撃ち洩らした以上、この後は三日目に一羽来るか、七日目に一羽来るか、あるいは十日も半月もまったく姿をみせないか、ほとんど予測しがたいのである。そうなると、ゆうべと今朝の失敗がいよいよ悔やまれるのであるが、多年の経験によって弥太郎は若侍らを励ますように言い聞かせた。
「ゆうべも一羽来た。けさは三羽来た。そういうふうにかれらが続けて来る年は、その後も続けて来るものだ。何かの事情で、かれらの棲んでいる深山《みやま》に食い物が著《いちじ》るしく欠乏した為に、二羽も三羽もつながって出て来たのであるから、まだ後からも続いて来るに相違ない。決して油断するな。ことしは案外|獲物《えもの》が多いかも知れないぞ。」
 人々も成程とうなずいた。しかもその日は一羽の影を見ることもなくて暮れた。角蔵が来るかと又次郎は待っていたが、彼も姿をみせなかった。娘が乱心のことを女親のまえでは何分にも言い出しにくいので、父を呼んでひそかに言い聞かせようと待ち受けていたのであるが、角蔵はついに来なかった。
 その後五日のあいだは毎日強い風が吹きつづけたが、荒鷲は風に乗って来なかった。ことしは獲物が多いという弥太郎の予言も、なんだか当てにならないようにも思われてきた。又次郎は久助を遣わして、角蔵一家の様子を窺わせると、角蔵はあの日に沖へ出て、寒い風に吹かれたせいか、夕方から大熱《だいねつ》を発してその後はどっと寝付いている。お蝶は別に変ったこともなく、母と一緒に病人の介抱をしているという。角蔵の来ない子細はそれで判ったが、お蝶に変ったことのないというのが、少しく又次郎の腑に落ちなかった。
 それから又三日を過ぎて、きょうは十月十一日である。二日以来、鷲はおろか、雁の影さえも碌々《ろくろく》に見えないので、人々の緊張した気分もだんだんにゆるんできた。弥太郎の予言はいよいよ当てにならなくなって、蔭では何かの悪口をいう者さえ現われた。
「畜生。今にみろ。」と、主《しゅう》おもいの久助はひそかに憤慨していた。
 このあいだから毎日吹きつづけた木枯しも、きのうの夕方から忘れたようにやんで、きょうは朝からうららかな小春|日和《びより》になった。そめ日の夕方には、宿の主人から酒肴の饗応があった。
「どなた様も日々のお勤め御苦労に存じます。お骨休めに一杯召上がって下さいまし。」
 一定の食膳以外に、酒肴の饗応にあずかっては相成らぬという掟《おきて》にはなっているが、詰所にあてられている宿許《やどもと》から折りおりの饗応を受けるのは、ほとんど年々の例になっているので、誰も怪しむ者もなかった。かような心配にあずかっては却って迷惑であるという一応の挨拶をした上で、めいめいに膳にむかった。もちろん、出役《しゅつやく》の武士ばかりではない。その家来も見習いの子弟もみな同様の饗応を受けるのであるから、中間どものなかには最初からそれを書き入れにしているのもあった。
 又次郎も父とともに広い座敷へ出て、一同とならんで席についた。元来はあまり飲めぬ口であるが、今夜はめずらしく盃をかさねたので、次第に酔いが発してきた。彼は中途から座をはずして、人に覚《さと》られないように庭先へ出ると、十一日の月は物凄いほどに冴えていた。風がないせいか、今夜はさのみに寒くなかった。
 御馳走酒に酔ったせいでもあるまいが、又次郎は近ごろに覚えないほどのいい心持になった。彼は暖かいような、薄ら眠いような、なんともいえない心持で、庭の冬木立ちのあいだをくぐりぬけて、ふらふらと表門の外へ出ると、月はいよいよ明るかった。まだ五つ(午後八時)を過ぎたくらいであろうと思われるのに、ここらは深夜のようにしずまって、田畑のあいだに遠く点在する人家の灯もみな消えている。
 又次郎はどこをあてともなしに、明るい往来をさまよい歩いていたが、ふと気がつくと、自分のうしろから忍び足につけてくるような足音がきこえた。振り返ってみると、それは若い女であった。月が冴え渡っているので、女の顔はよくわかった。それはお蝶の姉のお島であった。
 江戸の屋敷にいるはずのお島がどうしてここらを歩いているのか。それを考える隙《ひま》もなしに又次郎は引っ返して女のそばへ寄った。
「お島……。どうして来た。」
 彼はなつかしそうに声をかけたが、お島はだまっていた。しかもその白い顔は正面から月のひかりを受けているので眉目《びもく》明瞭、うたがいもない江戸屋敷のお島であった。
「むむ、わかった。」と、又次郎はうなずいた。「おやじの病気見舞にきたのか。」
 お島はうなずいた。
「そうか。親孝行だな。江戸を出てから、まだ十日《とおか》ばかりだが、このごろはおまえが恋しくなって、ゆうべもお前の夢をみた。いや、嘘じゃあない。今夜も酒に酔って、いい心持になってここらをぶらついていると、急に江戸が恋しくなって……。お前が恋しくなって……。そこへ丁度にお前が来て……。いや、いや、こりゃあ油断ができない。こいつ、狐じゃあないか。おれが酔っていると思って馬鹿にするな。」
 彼はよろけながら腰の脇指に手をかけたが、さすがに思い切って抜こうともしなかった。
「おい、焦《じ》らさないで正直に言ってくれ。おまえは狐で、おれを化かすのか。それとも本当のお島か。」
「島でございます。」
「お島か。」
「はい。」
「それで安心した。宿へ帰っては親父が面倒だ。おまえの家《うち》には病人がある。お前は土地の生れだから、いいところを知っているだろう。どこへでも連れて行ってくれ。」
 若い男と女とは肩をならべて、冬の月の下をあるき出した。

     六

「あ。」
 和田弥太郎は持っている箸をおいて、天井をにらむように見上げた。
 詰所の饗応の酒宴ももう終って、酒の盃を飯の茶碗にかえた時である。弥太郎が不意に声を出したので、一座の人々も同時に箸をおいた。
「あ、あれ。」と、弥太郎は熱心に耳をかたむけた。「あれは……。風の音でない。大きい鳥の羽摶《はばた》きの音だ。」
 とは言ったが、どの人の耳にも鳥の羽音らしいものは聞えなかった。
「ほんとうに聞えますか。」と、ひとりが訊いた。
「むむ、きこえる。たしかに鳥の羽音だ。よほど大きい。」
 彼は衝《つ》と起って、母屋から自分の離れ座敷へもどった。
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