は頭《かぶり》をふった。
「今は御用の出先だ。逢ってはいられない。又次郎、おまえが逢ってやれ。」
 言いすてて弥太郎は陣笠をかぶって、すたすたと表へ出かかると、大きい椿のかげから四十五、六の小作りの男が赭黒《あかぐろ》い顔を出して、小腰をかがめながら丁寧に一礼した。そのあとに続くのはかのお豊で、これもうやうやしく頭をさげた。それを見返って、弥太郎はただひと言いった。
「みんな達者でいいな。」
「おめえ達は若且那と話して行きねえ。」と、久助は言った。「旦那さまはこれからお出かけだ。」
 挨拶はそれだけで、主従はそのまま足早に出て行った。弥太郎は遠眼鏡を持っていた。久助は鉄砲をかついでいた。そのうしろ姿を見送って、お豊の夫婦はさらに作男にも挨拶して、恐る恐るに座敷の縁先へ廻ってゆくと、それを待つように又次郎は縁に腰をかけていた。
「やあ、角蔵か。ひさし振りだな。お豊も来たか。」と、又次郎は笑いながら声をかけた。「さあ、遠慮はいらない。これへ掛けろ。」
「はい、はい。恐れいります。」
 一応の辞儀をした上で、角蔵は少しく離れた縁のはしに腰をおろした。お豊はそのそばに立っていた。
「ゆうべは強い風だったな。江戸もこの頃は風が多いが、こっちもなかなか強い風が吹く。ここらは海にむかっているので、江戸よりは暖かそうに思われるが、けさなどは随分寒い。」と、又次郎は晴れた空をあおぎながら言った。
「昨年よりもお寒いようでございます。」と、角蔵も言った。「なにしろ木枯しとかいうのが毎日吹きますので……。」
「むむ。先年来たときよりも寒いようだ。このあいだはお母さまと久助が川崎でお豊に逢ったそうだな。」
「はい、はい。丁度に御新造さまにお目にかかりまして、いろいろ御馳走さまになりました。」
 と、お豊はいかにも有難そうに答えた。
 ゆうべの木枯しの名残りがまだ幾らか吹き続けているが、東向きの縁先には朝日の光りが流れ込んで、庭の冬木立ちに小鳥のさえずる声がきこえた。夫婦は顔を見合せて、何か言いたいような風情《ふぜい》でまた躊躇していたが、やがて思い切ったように角蔵が言いだした。
「若旦那さまの前でこんなことを申上げましては……まことに恐れ入りますが……。実は先日、このお豊が川崎の大師さまへ御参詣をいたしまして、お神鬮《みくじ》をいただきましたところが……凶と出まして……。お蝶も同じように凶と出ましたので……。」
 主人の身の上を案じて、日ごろ信仰する大師さまのお神鬮を頂いたところが、母にも娘にも凶というお告げがあったので、自分たちはひどく心配している。御新造さまも御心配の最中であるから、先日はそれをお耳にいれるのを遠慮したが、なにぶんにも気にかかってならないので、あなたにまで内々で申上げるというのである。年の若い侍は勿論それに耳を仮《か》さなかったが、元来が物やさしい生れの又次郎は、頭からそれを蹴散らそうともしなかった。彼はまじめにうなずいてみせた。
「いや、親切にありがとう。お父さまは勿論、わたしたちも随分気をつけることにしよう。」
「どうぞくれぐれもお気をおつけ遊ばして……。」
 主人思いの角蔵夫婦もこの上には何とも言いようがなかった。又次郎もほかに返事のしようがなかった。それから続いて鷲撃ちの話が出て、ことしは九月以来、鷲が一羽も姿を見せなかったこと、ゆうべ初めて一羽の仔鷲を見つけたが、鉄砲方が不馴れのために撃ち損じたこと、それらを夫婦が代るがわるに話したが、いずれもすでに承知のことばかりで、特に又次郎は興味をそそるような新しい報告もなかった。
 長居をしては悪いという遠慮から、夫婦はいいほどに話を打切って帰り支度にかかった。
「いずれ又うかがいます。旦那さまにもよろしく……。」
「むむ。逗留中は又来てくれ。」
 たがいに挨拶して別れようとする時に、表はにわかに騒がしくなった。ここの家の者共も皆ばらばらと表へかけ出した。
「鷲だ、鷲だ、鷲が三羽来た……。」と、口々に叫んだ。
「なに、鷲が三羽……。」
 又次郎もにわかに緊張した心持になって、空をあおぎながら表へ駈け出した。角蔵夫婦もそのあとに続いた。

     四

 表へ出ると、そこにもここにも土地の者、往来の者がたたずんで、青々と晴れ渡った海の空をながめていた。鉄砲方の者も奔走していた。
 この混雑のなかを駈けぬけて、又次郎はまず海端《うみばた》の方角へ急いで行くと、途中で久助に逢った。
「どうした、鷲は……。」
「いけねえ。いけません。三羽ながらみんな逃げてしまいました。」
「また逃がしたのか。」と、又次郎は思わず歯を噛んだ。「して、お父さまは……。」
「さあ。わたくしも探しているので……。確かにこっちの方だと思ったが……。」
 彼もよほど亢奮《こうふん》しているらしい。眼の前に立っている若且那を置き去りにして、そのままどこへか駈けて行ってしまった。取残された又次郎は右へ行こうか、左にしようかと、立ち停まって少しく思案していると、路ばたの大きい欅《けやき》のかげから一人の若い女があらわれた。
 ここらは田や畑で、右にも左にも人家はなかった。欅の下には古い石地蔵が立っていて、その前には新しい線香の煙りが寒い朝風にうず巻いていた。若い女はこの地蔵へ参詣にでも来たのであろうと、又次郎はろくろくにその姿も見極めもせずに、ともかくも最初の考え通りに海端の方角へ急いで行こうとすると、若い女は声をかけた。
「もし、あなたは若旦那さまじゃあございませんか。あの、お江戸の和田さまの……。」
 言う顔を見て、又次郎は思い出した。女は角蔵の娘――自分の屋敷に奉公しているお島の妹のお蝶であった。又次郎は父の供をして、先年もこの羽田へ来たことがあるので、お蝶の顔を見おぼえていた。
「お蝶か。お前の親父もおふくろも、たった今わたしの宿へたずねてきた。」
「そうでございましたか。」
 ここまではひと通りの挨拶であったが、彼女《かれ》はたちまちに血相《けっそう》をかえて飛び付くように近寄って来て、主人の若旦那の左の腕をつかんだ。その大きい眼は火のように爛々《らんらん》と輝いていた。
「あなたのお父さまはわたしのかたきです。」
「かたき……。」
 又次郎は烟《けむ》にまかれたようにその顔をながめていると、お蝶の声はいよいよ鋭くなった。
「わたしの親はあなたのお父さまに殺されるのです。」
「おまえの親……。角蔵夫婦じゃあないか。」
「いいえ、違います。今のふた親は仮りの親です。わたしの親はほかにあります。どうぞその親を殺さないで下さい。殺せばきっと祟《たた》ります。執り殺します。」
「角蔵夫婦は仮りの親か。」と、又次郎は不思議そうに訊き返した。「して、ほんとうの親はだれだ。」
 お蝶は無言で又次郎の顔をみあげた。その大きい眼はいよいよ燃えかがやいて、ただの人間の眼とは見えないので、又次郎は言い知れない一種の恐怖を感じた。しかも彼は武士である。まさかにこの若い女におびやかされて、不覚をとるほどの臆病者でもなかった。
「おまえは乱心しているな。」
 又次郎でなくとも、この場合、まずこう判断するのが正当であろう。こう言いながら、彼は掴まれた腕を振払おうとすると、お蝶の手は容易に放れなかった。その指先は猛鳥の爪のように、又次郎の腕の皮肉に鋭く食い入っているので、彼はまたぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
「わたしの親を助けてください。」と、お蝶は又言った。
「その親はどこにいるのだ。」
 お蝶は掴んでいた手を放して、海とは反対の空を指さした。それを見ているうちに、又次郎はふと考えた。かれの指さす空は武州か甲州の方角である。前にもいう通り、その眼はただの人間の眼ではない、鷲か鷹のごとき猛鳥の眼である。その上に、わたしの親はあなたのお父さまに殺されるという。それらを綜合して考えると、お蝶の親は鷲であるというような意味にもなる。――こう考えて、又次郎はまた思いなおした。世にそんな奇怪なことのあろう筈がない。お蝶は確かに角蔵夫婦の子で、お島の妹である。武州や甲州の山奥から飛んでくる鷲の子――それが人間の形となって自分の前に立っているなどということは、昔の小説や作り話にもめったにあるまい。
 自分が夢をみているのか、お蝶が乱心しているのか、二つに一つのほかはない。勿論、後者であると又次郎は判断した。乱心ならば不憫《ふびん》な者である。なんとか宥《なだ》めて親たちに引渡してやるのが、自分として採るべき道であろうと思ったので、彼はにわかに声をやわらげた。
「わかった、判った。おまえの親はあの方角から来るのだな。よし、判った。わたしからお父さまに頼んで、きっと殺さないようにしてやる。安心していろ。」
「きっと頼んでくれますか。」
「むむ、頼んでやる。して、おまえの親の名はなんというのだ。」
「世間では尾白といいます。」
「尾白……。」と、又次郎は再びぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
 それが男親であるか女親であるかを問いただそうかと思ったが、なんだか薄気味悪いのでやめた。その一|刹那《せつな》である。お蝶はにわかに何物にか驚かされたように、その燃えるような眼をいよいよ嶮《けわ》しくしたかと思うと、鳥のように身をひるがえして元の大樹のかげに隠れた。又次郎もそれに驚かされて見かえると、自分のうしろから父の弥太郎が足早に来かかった。弥太郎は鉄砲を持っていた。
「お父さま。」
「お前もここらに来ていたのか。」と、弥太郎は不興らしく言った。
「久助の話では三羽ともに取り逃がしたそうで……。」
「みんな逃げてしまった。」と、父は罵るように言った。「ゆうべに懲《こ》りて、けさはなるたけ近寄せようとしていると、土地の者どもが鷲が来た、鷲が来たと騒ぎ立てる。それに驚かされて、みんな引っ返してしまったのだ。我れわれは御用で来ているのに、係合いのない土地の奴らに面白半分に騒ぎ立てられては甚だ迷惑だ。村方一同には厳重に触れ渡して、今後は御用の邪魔をしないように、きっと言い聞かして置かなければならない。」
「鳥は大きいのですか。」と、又次郎は探るように訊いた。
「いや、みんな小さい。ゆうべのも仔鷲であったそうだが、けさのもみんな仔鷲だ。親鳥はまだ出て来ないとみえる。」
 親鷲は来ないと聞いて、又次郎は安心したようにも感じた。
「お前もおぼえておけ。この頃の木枯しは海から吹くのではない、山から吹きおろして来るのだ。こういう風が幾日も吹きつづくと、その風に乗って武州甲州信州の山奥から大きい鳥が出て来る。安房上総は山が浅いから、向う地から海を渡ってくるのは親鳥にしてもみんな小さい。ほんとうの大きい鳥は海とは反対の方角から来るのだ。」
 弥太郎は向き直って、西北の空を指さした。その指の先があたかもお蝶の教えた方角にあたるので、又次郎はまたなんだか嫌な心持になった。父はほほえんだ。
「けさの三羽を撃ち損じたのは残念だが、あんな小さな奴はまあどうでもいい。たとい仕留めたところで、たいした手柄にもならないのだ。」
 おれは大鳥の尾白を撃つという意味が、言葉の裏に含まれているらしく思われるので、又次郎はいよいよ暗い心持になった。
「もう五つ(午前八時)だろうな。」
「そうでございましよう。」
「むむ。」と、弥太郎は再び空をみあげた。「あいつらもなかなか用心深いから、日が高くなっては姿をみせないものだ。大抵は朝か夕方に出て来るのだから、きょうもまず昼間は休みだ。おれはこれから庄屋の家へ寄って、御用の邪魔をしないように言い聞かせてくる。年々のことだから判り切っているはずだのに、どうも困ったものだ。」
「では、ここでお別れ申します。」
「まあ、宿へ帰って休息していろ。今も言う通り、どうせ昼のうちは休みだ。」
 弥太郎は陣笠の緒を締めなおして、わが子に別れて立去った。又次郎はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。平素から厳格な父ではあるが、けさは取分けてその前に立っているのが窮屈のような、怖ろしいような心持で、久しく向い合っているのに堪えられなかったのである。
 父のうしろ姿の
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