お蝶は別に変ったこともなく、母と一緒に病人の介抱をしているという。角蔵の来ない子細はそれで判ったが、お蝶に変ったことのないというのが、少しく又次郎の腑に落ちなかった。
 それから又三日を過ぎて、きょうは十月十一日である。二日以来、鷲はおろか、雁の影さえも碌々《ろくろく》に見えないので、人々の緊張した気分もだんだんにゆるんできた。弥太郎の予言はいよいよ当てにならなくなって、蔭では何かの悪口をいう者さえ現われた。
「畜生。今にみろ。」と、主《しゅう》おもいの久助はひそかに憤慨していた。
 このあいだから毎日吹きつづけた木枯しも、きのうの夕方から忘れたようにやんで、きょうは朝からうららかな小春|日和《びより》になった。そめ日の夕方には、宿の主人から酒肴の饗応があった。
「どなた様も日々のお勤め御苦労に存じます。お骨休めに一杯召上がって下さいまし。」
 一定の食膳以外に、酒肴の饗応にあずかっては相成らぬという掟《おきて》にはなっているが、詰所にあてられている宿許《やどもと》から折りおりの饗応を受けるのは、ほとんど年々の例になっているので、誰も怪しむ者もなかった。かような心配にあずかっては却って迷惑であるという一応の挨拶をした上で、めいめいに膳にむかった。もちろん、出役《しゅつやく》の武士ばかりではない。その家来も見習いの子弟もみな同様の饗応を受けるのであるから、中間どものなかには最初からそれを書き入れにしているのもあった。
 又次郎も父とともに広い座敷へ出て、一同とならんで席についた。元来はあまり飲めぬ口であるが、今夜はめずらしく盃をかさねたので、次第に酔いが発してきた。彼は中途から座をはずして、人に覚《さと》られないように庭先へ出ると、十一日の月は物凄いほどに冴えていた。風がないせいか、今夜はさのみに寒くなかった。
 御馳走酒に酔ったせいでもあるまいが、又次郎は近ごろに覚えないほどのいい心持になった。彼は暖かいような、薄ら眠いような、なんともいえない心持で、庭の冬木立ちのあいだをくぐりぬけて、ふらふらと表門の外へ出ると、月はいよいよ明るかった。まだ五つ(午後八時)を過ぎたくらいであろうと思われるのに、ここらは深夜のようにしずまって、田畑のあいだに遠く点在する人家の灯もみな消えている。
 又次郎はどこをあてともなしに、明るい往来をさまよい歩いていたが、ふと気がつくと、自分の
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