わに言った。
「かしこまりました。」
「忙がしいところを、邪魔をしたな。」
 出て行こうとする又次郎を追いかけて、お豊はささやいた。
「さっきも申上げました通り、大師さまのおみくじには凶というお告げがございましたから……。どなたにもお気をお付け遊ばして……。」
 おみくじに偽《いつわ》りがなくば、ひとの事よりわが身のことである。おまえは自分のむすめが乱心しているのを知らないかと、又次郎は口の先まで出かかったが、やはり躊躇した。彼はただうなずいて別れた。
 老巧の弥太郎のいう通り、さすがの荒鷲も青天の白昼には余りに姿を見せないで、多くは早暁か夕暮れに飛んでくる。殊に雁《がん》や鴉《からす》とはちがって、いかにそれが江戸時代であっても、仮りにも鷲と名のつくほどのものが毎日ぞろぞろと繋《つな》がって来る筈がない。けさ三羽の仔鷲が相前後して飛んできたのは、一季に一度ぐらいの異例といってよい。それを撃ち洩らした以上、この後は三日目に一羽来るか、七日目に一羽来るか、あるいは十日も半月もまったく姿をみせないか、ほとんど予測しがたいのである。そうなると、ゆうべと今朝の失敗がいよいよ悔やまれるのであるが、多年の経験によって弥太郎は若侍らを励ますように言い聞かせた。
「ゆうべも一羽来た。けさは三羽来た。そういうふうにかれらが続けて来る年は、その後も続けて来るものだ。何かの事情で、かれらの棲んでいる深山《みやま》に食い物が著《いちじ》るしく欠乏した為に、二羽も三羽もつながって出て来たのであるから、まだ後からも続いて来るに相違ない。決して油断するな。ことしは案外|獲物《えもの》が多いかも知れないぞ。」
 人々も成程とうなずいた。しかもその日は一羽の影を見ることもなくて暮れた。角蔵が来るかと又次郎は待っていたが、彼も姿をみせなかった。娘が乱心のことを女親のまえでは何分にも言い出しにくいので、父を呼んでひそかに言い聞かせようと待ち受けていたのであるが、角蔵はついに来なかった。
 その後五日のあいだは毎日強い風が吹きつづけたが、荒鷲は風に乗って来なかった。ことしは獲物が多いという弥太郎の予言も、なんだか当てにならないようにも思われてきた。又次郎は久助を遣わして、角蔵一家の様子を窺わせると、角蔵はあの日に沖へ出て、寒い風に吹かれたせいか、夕方から大熱《だいねつ》を発してその後はどっと寝付いている。
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