うしろから忍び足につけてくるような足音がきこえた。振り返ってみると、それは若い女であった。月が冴え渡っているので、女の顔はよくわかった。それはお蝶の姉のお島であった。
江戸の屋敷にいるはずのお島がどうしてここらを歩いているのか。それを考える隙《ひま》もなしに又次郎は引っ返して女のそばへ寄った。
「お島……。どうして来た。」
彼はなつかしそうに声をかけたが、お島はだまっていた。しかもその白い顔は正面から月のひかりを受けているので眉目《びもく》明瞭、うたがいもない江戸屋敷のお島であった。
「むむ、わかった。」と、又次郎はうなずいた。「おやじの病気見舞にきたのか。」
お島はうなずいた。
「そうか。親孝行だな。江戸を出てから、まだ十日《とおか》ばかりだが、このごろはおまえが恋しくなって、ゆうべもお前の夢をみた。いや、嘘じゃあない。今夜も酒に酔って、いい心持になってここらをぶらついていると、急に江戸が恋しくなって……。お前が恋しくなって……。そこへ丁度にお前が来て……。いや、いや、こりゃあ油断ができない。こいつ、狐じゃあないか。おれが酔っていると思って馬鹿にするな。」
彼はよろけながら腰の脇指に手をかけたが、さすがに思い切って抜こうともしなかった。
「おい、焦《じ》らさないで正直に言ってくれ。おまえは狐で、おれを化かすのか。それとも本当のお島か。」
「島でございます。」
「お島か。」
「はい。」
「それで安心した。宿へ帰っては親父が面倒だ。おまえの家《うち》には病人がある。お前は土地の生れだから、いいところを知っているだろう。どこへでも連れて行ってくれ。」
若い男と女とは肩をならべて、冬の月の下をあるき出した。
六
「あ。」
和田弥太郎は持っている箸をおいて、天井をにらむように見上げた。
詰所の饗応の酒宴ももう終って、酒の盃を飯の茶碗にかえた時である。弥太郎が不意に声を出したので、一座の人々も同時に箸をおいた。
「あ、あれ。」と、弥太郎は熱心に耳をかたむけた。「あれは……。風の音でない。大きい鳥の羽摶《はばた》きの音だ。」
とは言ったが、どの人の耳にも鳥の羽音らしいものは聞えなかった。
「ほんとうに聞えますか。」と、ひとりが訊いた。
「むむ、きこえる。たしかに鳥の羽音だ。よほど大きい。」
彼は衝《つ》と起って、母屋から自分の離れ座敷へもどった。
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