る若且那を置き去りにして、そのままどこへか駈けて行ってしまった。取残された又次郎は右へ行こうか、左にしようかと、立ち停まって少しく思案していると、路ばたの大きい欅《けやき》のかげから一人の若い女があらわれた。
ここらは田や畑で、右にも左にも人家はなかった。欅の下には古い石地蔵が立っていて、その前には新しい線香の煙りが寒い朝風にうず巻いていた。若い女はこの地蔵へ参詣にでも来たのであろうと、又次郎はろくろくにその姿も見極めもせずに、ともかくも最初の考え通りに海端の方角へ急いで行こうとすると、若い女は声をかけた。
「もし、あなたは若旦那さまじゃあございませんか。あの、お江戸の和田さまの……。」
言う顔を見て、又次郎は思い出した。女は角蔵の娘――自分の屋敷に奉公しているお島の妹のお蝶であった。又次郎は父の供をして、先年もこの羽田へ来たことがあるので、お蝶の顔を見おぼえていた。
「お蝶か。お前の親父もおふくろも、たった今わたしの宿へたずねてきた。」
「そうでございましたか。」
ここまではひと通りの挨拶であったが、彼女《かれ》はたちまちに血相《けっそう》をかえて飛び付くように近寄って来て、主人の若旦那の左の腕をつかんだ。その大きい眼は火のように爛々《らんらん》と輝いていた。
「あなたのお父さまはわたしのかたきです。」
「かたき……。」
又次郎は烟《けむ》にまかれたようにその顔をながめていると、お蝶の声はいよいよ鋭くなった。
「わたしの親はあなたのお父さまに殺されるのです。」
「おまえの親……。角蔵夫婦じゃあないか。」
「いいえ、違います。今のふた親は仮りの親です。わたしの親はほかにあります。どうぞその親を殺さないで下さい。殺せばきっと祟《たた》ります。執り殺します。」
「角蔵夫婦は仮りの親か。」と、又次郎は不思議そうに訊き返した。「して、ほんとうの親はだれだ。」
お蝶は無言で又次郎の顔をみあげた。その大きい眼はいよいよ燃えかがやいて、ただの人間の眼とは見えないので、又次郎は言い知れない一種の恐怖を感じた。しかも彼は武士である。まさかにこの若い女におびやかされて、不覚をとるほどの臆病者でもなかった。
「おまえは乱心しているな。」
又次郎でなくとも、この場合、まずこう判断するのが正当であろう。こう言いながら、彼は掴まれた腕を振払おうとすると、お蝶の手は容易に放れなかった
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