の》ではもう涼し過ぎるような夜風に吹かれながら、わびしげに暗い往来をながめている時、ふと気がつくと、隣りの空家《あきや》の出窓の下にひとりの女が立っているらしい姿がみえた。窓の下には細い溝《どぶ》があって、石のあいだにはこおろぎが鳴いている。その溝のふちにたたずんで、女は内をのぞいているようにも見えたので、お銀はすこし不審に思った。
「もし、どなたでございます。お隣りは空家ですが……。」と、お銀は試みに声をかけた。
「はあ。」
 女は低い声で答えたかと思うと、そのまま暗いなかに姿をかくしてしまった。それを見送って、お銀は内へはいったが、せがれはまだ帰らなかった。筋向うの屋敷内に高くそびえている大銀杏《おおいちょう》の葉の時どき落ちる音が寂しくきこえるばかりで、夜露のおりたらしい往来には人の足音も響かなかった。
 今夜にかぎってお銀はひどく寂しい。もしや出先で我が子の上に何か変ったことでも出来たのではあるまいかと、取越し苦労に半時間ほどを過したかと思う頃に、人力車の音がだんだんに近づいて来た。家主の溝口医師が病家から帰ったのか、それともせがれが車に乗って帰ったのかと、お銀は再び起ちあがっ
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