の》ではもう涼し過ぎるような夜風に吹かれながら、わびしげに暗い往来をながめている時、ふと気がつくと、隣りの空家《あきや》の出窓の下にひとりの女が立っているらしい姿がみえた。窓の下には細い溝《どぶ》があって、石のあいだにはこおろぎが鳴いている。その溝のふちにたたずんで、女は内をのぞいているようにも見えたので、お銀はすこし不審に思った。
「もし、どなたでございます。お隣りは空家ですが……。」と、お銀は試みに声をかけた。
「はあ。」
女は低い声で答えたかと思うと、そのまま暗いなかに姿をかくしてしまった。それを見送って、お銀は内へはいったが、せがれはまだ帰らなかった。筋向うの屋敷内に高くそびえている大銀杏《おおいちょう》の葉の時どき落ちる音が寂しくきこえるばかりで、夜露のおりたらしい往来には人の足音も響かなかった。
今夜にかぎってお銀はひどく寂しい。もしや出先で我が子の上に何か変ったことでも出来たのではあるまいかと、取越し苦労に半時間ほどを過したかと思う頃に、人力車の音がだんだんに近づいて来た。家主の溝口医師が病家から帰ったのか、それともせがれが車に乗って帰ったのかと、お銀は再び起ちあがって、今度は出窓から表をのぞこうとした時、表では何か口早に話すような人声がきこえた。それは溝口医師と抱え車夫の元吉の声であった。
「ともかくも家《うち》まで乗せて行け。」
溝口の命令する声がきこえて、やがて車は門前におろされた。お銀は窓から伸びあがって覗いてみると、車夫の元吉は梶棒《かじぼう》をおろして、くぐり門から一旦はいったかと思うと、さらに内から正面の門を左右にひらいて、車を玄関さきまで挽《ひ》き込んで行った。その提灯のひかりに照らされた車上の人は若い女であった。そのあとから溝口もつづいてはいった。
お銀はさらに台所へまわって、水口《みずぐち》の戸をすこし明けてうかがうと、溝口と元吉は女を介抱して奥へ連れ込んで行くらしい。元吉は夫婦者で、お新という若い女房がある。そのお新も自分の家から駈け出して行って、なにか手伝っているのを見ても、それが急病人か怪我人であるらしいことは、容易に想像された。まさかにコレラでもあるまいとお銀は思った。
そのうちに元吉とお新の夫婦が奥から出て来たので、お銀は水口から出てそっと様子を訊くと、元吉はあたまを掻きながら答えた。
「いや、どうも大しくじりを
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