おかた切り払われてしまったが、その古い屋敷の土塀のなかには武蔵野以来の建物で、今日《こんにち》ならば差しづめ古樹保存の札でも立てられそうな大木が往来の上まで枝や葉を繁らせて、さなきだに暗く狭い町をいよいよ暗くしていた。昼でも往来の人は少ない。まして日が暮れると、土地の人でもよんどころない用事のほかは外出しなかったらしい。現に僕も二月の午後八時ごろ、三番町から中六番町をぬけて麹町の大通り附近までくるあいだに、ひとりの人にも出逢わないで、ずいぶん怖いさびしい思いをした経験を持っている。そういう時代、そういう場所ではあるが、溝口医師は相当の病家を持って相当の門戸《もんこ》を張っていた。
 門戸といえば、溝口医師の家は小さい旗本の古屋敷を買って、それに多少の手入れをしたもので、門の一方には門番でも住んでいたらしい小さい家があり、他の一方にも小さい長屋二軒が付いていたので、門番の小屋には抱えの車夫を住まわせ、他の長屋二軒は造作を直して、表から出入りの出来るように格子戸をこしらえ、一軒一円五十銭ぐらいの家賃で人に貸していた。なんでも三畳と四畳半と六畳の三間《みま》であったということで、それで造作付一円五十銭は今考えると嘘のようであるが、それでも余り安い方ではないという評判であった。そのせいか、門に近い方の一軒は塞《ふさ》がっていたが、となりの一軒は明いていた。
 ふさがっている方の借家人は矢田友之助という大蔵省の官吏であった。そのころは官吏とはいわない、官員といっていたのである。矢田はことし二十四、五で、母のお銀とふたり暮しであったが、たとい末班でも官員さんの肩書をいただいている以上、一ヵ月一円五十銭の家賃を滞納するようなこともなく、無事に一年あまりを送っていた。
「友さんは遅いねえ。」
 ひとりごとを言いながら、母のお銀は格子をあけて表を見た。明治十三年九月の末の薄く陰った宵で、柱時計が今や八時を打ったのを聞いてから、お銀は長火鉢の前を離れて門口《かどぐち》へ出たのであった。
 せがれの友之助は独身の若い者であるから、残り番だとか宿直だとか名をつけて、時どきは夜おそく帰ったり、泊って来たりすることもある。お銀もそれを深く咎めようとはしなかったが、親ひとり子ひとりの家庭であるから、せがれの帰らない夜はなんとなく寂しい。今夜も遅いのか、それとも帰らないのかと、お銀は単衣《ひとえも
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