有喜世新聞の話
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小鯔《いな》が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)溝口|杞玄《きげん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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一
S君は語る。
明治十五年――たしか五月ごろの事と記憶しているが、その当時発行の有喜世新聞にこういう雑報が掲載されていた。
京橋築地の土佐堀では小鯔《いな》が多く捕れるというので、ある大工が夜網《よあみ》に行くと、すばらしい大鯔《おおぼら》が網にかかった。それを近所の料理屋の寿美屋の料理番が七十五銭で買い取って、あくる朝すぐに包丁を入れると、その鯔の腹のなかから手紙の状袋《じょうぶくろ》が出た。もちろん状袋は濡れていたが女文字で○之助様、ふでよりというだけは明らかに読まれた。
有喜世新聞社では一種の艶種《つやだね》と見過して、その以上に探訪の歩を進めなかったらしく、単にそれだけの事実を報道するにとどまっていた。鯉の腹から手紙のあらわれたことはシナの古い書物にも記《しる》されている。鯔の腹から状袋が出ても、さのみ不思議がるにも当らないかも知れない。殊にその当時七十五銭で買われるくらいの大鯔ならば、なにを呑んでいるか判ったものではない。記者もそのつもりで書き流し、読者もそのつもりで見過してしまったのであろうが、僕は偶然の機会からその状袋の秘密を知ることが出来たのである。
といっても、明治十五年――そのころは僕がようよう小学校へ通いはじめた時分であるから、その時すぐに判ったのではない。後日に偶然聞き出したのであることを、まず最初に断っておく。僕の叔父の知人に溝口|杞玄《きげん》という医師がある。その医師がこの新聞をみると、すぐに京橋の警察署へ出頭して、秘密に某事件の捜査を依頼したのであった。
溝口医師はそのころ麹町の番町で開業していた。今でも番町の一部はあまり賑かではないが、明治初年の番町辺はさらにさびしかった。元来がほとんど武家屋敷ばかりであった所へ、維新の革命で武家というものが皆ほろびてしまったのであるから、そこらには毀れかかった空屋敷《あきやしき》が幾らもある。持ち主が変っても、その建物は大抵むかしのままであるから、依然として江戸以来の暗い空気に閉じられている。今ではお
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