馴染んだ時のことや、本所の家に一緒に暮らしていた時のことや、自分がここへ来てから後のことや、いろいろの思い出がそれからそれへと湧き出して、彼の眼は絶え間なしにうるんだ。お絹はやはり生かして置きたかった。憂しと見し世ぞ今は恋しきとはよく言ったものだと、彼は今更のように感じた。
明くる日は主人が登城の当日で、林之助は何を考えている間《ひま》もなかった。彼は用人に叱られないようにかいがいしく働いた。登城もとどこおりなく済んで、主人が屋敷へもどって来ると、彼もまず荷を卸したように思った。お絹の葬いはきょうの暮れ方と聞いているので、たとい途中の見送りは出来ないまでも、せめて門送《かどおく》りだけでもしたいと思って、彼は早々に屋敷を出た。出るさきになって気がついたのは、お里の母の死を聞いた時とおなじように、彼は幾らかの銀《かね》を用意して行かなければならない事である。いつもの場合と違って、彼は空手《からて》でお絹の家の格子をくぐるわけにはいかなかった。
このあいだの二歩がまだ返してないので、林之助は又もや用人に頼むことも出来なかった。屋敷じゅうにはほかに融通の付きそうな人物は見付けられなかった
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