。お前だってああ詰まらないと思うこともあるだろう。しかしそこが辛抱だよ。おれだっていつまでこうしちゃあいない。そのうちにはだんだん出世して給人《きゅうにん》か用人《ようにん》になれまいものでもない。そのあかつきにはお前を引き取るとも、又おまえが窮屈でいやだと言うならばそっと何処へか囲って置くとも、そりゃあ又どうにでも仕様があろうというものじゃあねえか」
 林之助の言うことは大道《だいどう》うらないの講釈のように嘘で固めていた。彼の奉公している杉浦中務の屋敷は六百五十石で、旗本のうちでもまず歴々の分に数えられているので、用人や給人はすべて譜代《ふだい》である。渡り奉公の中小姓などが並大抵のことでその後釜に据われる訳のものではない。林之助も無論それを知らない筈はなかったが、この場合、まずこんなことでも言って女の手前をつくろって置くよりほかはなかった。
 そうした気休めはもう幾たびか聞き慣れているので、お絹も身に沁みて聞こうとはしなかった。しかしそんな見え透いた嘘をついてまでも、自分の機嫌を取るように努めているらしい男の心は、やはり憎くなかった。
「だけど、お前さん。歴々のお旗本の御用人さまが両国の橋向うの蛇つかいを御新造《ごしんぞ》にする。そんなことが出来ると思っているの」
「表向きは無論できねえ理屈さ。だが、一旦綺麗に足を洗って置いて、それから担当の仮親《かりおや》を拵《こしら》えりゃあ又どうにか故事《こじ》つけられるというものだ。又それが小《こ》面倒だとすれば、今も言う通りどこへか囲っておく。つまり二人が末長く添い通せりゃあ、それで別に理屈はねえ筈だ」
 これも去年の冬から何度繰り返しているか判らない。お絹も何度聞いているか判らない。二人が顔を突きあわせれば、いつもこの同じような問題を中心にして、男は的《あて》になりそうもないことを言い、女も的にならないことを知りながら渋々|納得《なっとく》している。その間には言い知れない悩みと寂しさとを感じていながらも、お絹は切るに切れない糸に引き摺られていた。
 今夜のお絹には、まだほかに言いたいことがあった。列び茶屋のお里のことが胸いっぱいにつかえていながらも、確かな手証《てしょう》を見とどけていない悲しさには、さすがに正面から切り出すのを差し控えていなければならなかった。それでも、何とかしてこの新しい問題を解決した上でなければ、男を今夜このままに帰したくないので、彼女はだまって俯向きながら、林之助を無理にひきとめる手だてをいろいろに工夫していた。
 男も立端《たちは》を失ったように、一度しまいかかった袂落《たもとおと》しの煙草入れを又あけて、細い銀煙管から薄いけむりを吹かせていたが、その吸い殻をぽん[#「ぽん」に傍点]と叩くのをきっかけに、今度は思い切って起ちあがった。
「まあ、からだを大事にするがいい。又近いうちに来るから」
「列び茶屋へばかり行かないでね、ちっとこっちへも来てくださいよ」
 思い余ったお絹の口から忌味《いやみ》らしいひと言がわれ知らずすべり出ると、林之助は少し顔をしかめて立ち停まった。
「列び茶屋へ行く……。誰が」
「お前さんがさ。みんな知っているよ」
 乗りかかった船で、お絹もこう言った。
「へん、つまらねえことを言うな」
 問題にならないというような顔をして、男はすたすた[#「すたすた」に傍点]出て行こうとした。
 そのうしろ姿をじっと見つめているうちに、お絹は物に憑《つ》かれたように俄かにむらむら[#「むらむら」に傍点]と気が昂《た》って来た。彼女は不意に起ちあがって長火鉢の角につまずきながら、よろけかかって男の肩にしがみついた。
「林さん。おまえさん、ずいぶん薄情だね」
 だしぬけに鋭いヒステリックの声を浴びせられて、気でも違いはしないかというように、林之助は呆気《あっけ》にとられた顔をしてお絹をみると、彼女のものすごい眼は上吊《うわづ》っていた。その声はもう嗄《か》れていた。
「お前さん、あたしというものをどうして呉れるつもりなの。おまえさんを屋敷へやった以上は、どうで二人のあいだに長い正月のないことはあたしも大抵あきらめていたけれども、目と鼻の広小路へ来て列び茶屋の娘とふざけ散らしている。そんなことをされて、おとなしく見物しているあたしだと思っているのかえ」と、お絹は早口に言った。「いつもいう通り、蛇は執念ぶかいんだから、そう思っておいでなさいよ」
「列び茶屋の娘……。そりゃあ思いもつかねえ濡衣《ぬれぎぬ》だ。なるほど友達のつきあいで、列び茶屋の不二屋へ此中《このじゅう》ちょいちょい遊びに行ったこともあるが、なにも乙に絡《から》んだことを言われるような覚えはねえ。こう見えてもおれは大川の水、あっさりと清いものだ」
「悪くお洒落でないよ」と、お絹は男の肩を
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