両国の秋
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お絹《きぬ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)若|粧《づく》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]
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一
「ことしの残暑は随分ひどいね」
お絹《きぬ》は楽屋へはいって水色の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》をぬいだ。八月なかばの夕日は孤城を囲んだ大軍のように筵張《むしろば》りの小屋のうしろまでひた寄せに押し寄せて、すこしの隙《すき》もあらば攻め入ろうと狙っているらしく、破れた荒筵のあいだから黄金《こがね》の火箭《ひや》のような強い光りを幾すじも射《い》込んだ。その箭をふせぐ楯のように、古ぼけた金巾《かなきん》のビラや、小ぎたない脱ぎ捨ての衣服《きもの》などがだらしなく掛かっているのも、狭い楽屋の空気をいよいよ暑苦しく感じさせたが、一座のかしらのお絹が今あわただしく脱いだ舞台の衣裳は、袂《たもと》の長い薄むらさきの紋付きの帷子《かたびら》で、これは見るからに涼しそうであった。
白い肌襦袢一枚の肌もあらわになって、お絹はがっかりしたようにそこに坐ると、附き添いの小女《こおんな》が大きい団扇《うちわ》を持って来てうしろからばさばさ[#「ばさばさ」に傍点]と煽《あお》いだ。白い仮面《めん》を着けたように白粉《おしろい》をあつく塗り立てたお絹のひたいぎわから首筋にかけて、白い汗が幾すじかの糸をひいてはじくように流れ落ちるのを、彼女《かれ》は四角に畳んだ濡《ぬ》れ手拭で幾たびか煩《うる》さそうに叩きつけると、高い島田の根が抜けそうにぐらぐらと揺らいで、紅い薬玉《くすだま》のかんざしに銀の長い総《ふさ》がひらひらと乱れてそよいだ。見たところはせいぜい十七、八のあどけない若|粧《づく》りであるが、彼女がまことの暦《こよみ》は二十歳《はたち》をもう二つも越えていた。
「ほんとうにお暑うござんすね」と、小女のお君《きみ》は団扇の手を働かせながら相槌《あいづち》を打った。
「暑いせいか、木戸も閑《ひま》なようですね」
「あたりまえさ。この暑さじゃあ、大抵の者はうだってしまわあね。どうでこんな時に口をあいて見ているのは、田舎者か、勤番者《きんばんもの》か陸尺《ろくしゃく》ぐらいの者さ」
手拭で目のふちを拭いてしまって、お絹は更に小さいふところ鏡をとり出して、まだらに剥げかかった白粉の顔を照らして視ていた。
「中入《なかい》りが済むと、もう一度いつもの芸当をごらんに入れるか、忌《いや》だ、いやだ。からだが悪いとでもいって、お若《わか》のように二、三日休んでやろうかしら」
「あら、姐《ねえ》さんが休んだら大変ですわ」と、お君はびっくりしたように眼を丸くした。
「お若さんが休んでいるのはまだいいけれど、姐さんに引かれちゃあ、まったく大変だわ」と、茶碗に水を汲んで来た他の若い女が言った。「あたし達は、ほんの前芸《まえげい》ですもの」
「前芸でたくさんだよ、この頃は……。ほんとうの芸当はもう少し涼風《すずかぜ》が立って来てからのことさ。この二、三日の暑さにあたったせいか、あたしは全くからだが変なんだよ」
「そりゃあ陽気のせいじゃありますまい」と、地弾《ぢひ》きらしい年増《としま》の女が隅の方から忌《いや》に笑いながら口を出した。「向柳原《むこうやなぎわら》はどうしたのか、この二、三日見えないようですね」
「二、三日どころか、八月にはいってからは、碌《ろく》に寄り付きゃあしないのさ、畜生、憶えているがいい」
お絹は眼にみえない相手を罵《ののし》るように呟《つぶや》いた。金地に紅い大きい花を毒々しく描いてある舞台持ちの扇で、彼女は傍にある箱を焦《じ》れったそうにとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、箱の小さい穴から青い頭の蛇がぬるぬると首を出した。
「畜生、お前の出る幕じゃあないんだよ」
扇で頭を一つ叩かれて、蛇はおとなしく首をすくめて、もとの穴に隠れてしまった。
「八つあたりね、可哀そうに……。ずいぶん邪慳《じゃけん》だこと」と、若い女が笑った。
「あたしは邪慳さ。おまけにこの頃は癇《かん》が起ってじりじり[#「じりじり」に傍点]しているから、たれかれの遠慮はないんだよ」と、お絹は扇で又もやその箱を強く叩いたが、蛇はもう懲りたと見えて、今度は首を出さなかった。
「お察し申しますよ」と、年増はすこし阿諛《おもね》るようにしみじみ言った。「向柳原はほんとうにどうしたんでしょう。まったく不実《ふじつ》
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