ですね。そんな義理じゃないでしょうが……」
「義理なんか知っている人間かい」と、お絹はさも憎いもののように扇を投げ捨てた。「今に見るがいい。どんな目に逢わせるか」
 お君は左の手のひらにひと掴みの米をのせて来て、右の指さきで一粒ずつ摘《つま》みながら箱の穴のなかへ丁寧におとしてやると、青い蛇の頭が又あらわれた。ことし十五のお君ももう馴れているとみえて、別に気味の悪そうな顔もしていなかった。
 舞台の方でかちかち[#「かちかち」に傍点]という拍子木《ひょうしぎ》の音がきこえると、お絹はそこにある茶碗の水をひと息にぐっと飲みほして、だるそうに立ちあがった。お君はうしろに廻って再び彼女に別の衣裳を着せかえた。
 今度は前と違って、吉原の花魁《おいらん》の裲襠《しかけ》を見るような派手なけばけばしい扮装《いでたち》で、真っ紅な友禅模様の長い裾が暑苦しそうに彼女の白い脛《はぎ》にからみついた。お絹は緋縮緬の細紐《しごき》をゆるく締めながら年増の方を見かえった。
「おばさん。きょうは三味線がのろかったぜ。もう少し早間《はやま》にね。いいかい」
「はい、はい」
 鬢《びん》をもう一度掻きあげて、お絹は悠々と楽屋を出ると、お君は蛇の箱をかかえてその後について行った。年増も三味線をかかえて起った。
 あとに残った若い女はほっ[#「ほっ」に傍点]としたような顔をして、お絹が脱ぎ捨ての※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]や帷子《かたびら》を畳み付けていると、今まで隅の方に黙って煙草をすっていた五十ぐらいの薄あばたのある男が、さっきの蛇のように頭をもたげて這い出して来て、若い女に話しかけた。
「お花さん。姐さんはひどくお冠《かんむり》が曲がっているね」
「おお曲がり。毎日みんなが呶鳴られ通しさ。やり切れない」と、お花は舌打ちした。
「だが、無理じゃあねえ。向柳原が近来の仕向け方というのも、ちっと宜《よろ》しくねえからね」
「まったく豊《とよ》さんの言う通りさ。けれども、姐さんもずいぶん無理をいってあの人をいじめるんだからね。いくら相手がおとなしくっても、あれじゃあ我慢がつづくまいよ」
「それもそうだが……」と、豊という五十男はどっちに同情していいか判らないような顔をしてまた黙ってしまった。
 この一座の姐さんと呼ばれている蛇つかいのお絹には、仁科林之助《にしなりんのすけ》という男があった。林之助は御直参《ごじきさん》の中でも身分のあまりよくない何某《なにがし》組の御家人《ごけにん》の次男で、ふとしたはずみからこのお絹と親しくなって、それがために実家をとうとう勘当されてしまった。低い家柄に生まれた江戸の侍としては、林之助はちっとも木綿摺《もめんず》れのしないおとなしやかな男であった。相当に読み書きもできた。殊にお家流《いえりゅう》を達者に書いた。
 勘当された若い侍はすぐにお絹の家に引き取られた。お絹が可愛がっているものは、林之助と蛇とであった。こうして一年ほども仲よく暮らしているうちに、男はある人の世話で御納戸衆《おなんどしゅう》六百五十石の旗本|杉浦中務《すぎうらなかつかさ》の屋敷へ中小姓《ちゅうごしょう》として住み付くことになった。窮屈な武家奉公などしないでも、お前さん一人ぐらいはあたしが立派にすごしてみせると、お絹はしきりにさえぎって止めたが、すなおな林之助もこの時ばかりは無理に振り切って出て行った。杉浦の屋敷は向柳原で、この両国と余り遠くもなかった。それはお絹が可愛がっている三匹の青い蛇がだんだん寒さに弱ってゆく去年の冬の初めであった。
 旗本屋敷の中小姓がおもな勤めは、諸家への使番と祐筆《ゆうひつ》代理とであった。人品がよくてお家流を達者にかく林之助は、こうした奉公の人に生まれ付いていたので、屋敷内の気受けも悪くなかった。屋敷へはいってからも、林之助は用の間《ひま》をみてお絹にたびたび逢いに来た。東両国の観世物《みせもの》小屋の楽屋へも時どき遊びに来た。それが今年の川開き頃からしだいに足が遠くなって、お絹の家《うち》にも楽屋にも林之助の白い顔が見えなくなった。焼けるような真夏の暑さにむかって青い蛇は生き生きした鱗《うろこ》の色をよみがえらせたが、蛇つかいの顔には暗い影が始終まつわっていた。
「どう考えても向柳原の仕打ちが其《そ》でねえようだ」と、豊は最後の判決をくだした。「ちっとぐれえ姐さんが無理をいったところで、そりゃあ柳に受けているだけの義理もあろうというもんだ。なにしろ、かれこれ一年の余もああして世話になった以上は……。おいらっちのようなこんな人間でも、人の世話になったことは覚えている。まして痩せても枯れても二本差しているんじゃねえか。堀川のお俊《しゅん》を悪く気取って、世
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