話しられても恩に被《き》ぬは、あんまり義理が悪かろうと思うが……。ねえ、どんなもんだろう」
「そりゃあこっちでばかり言うことで、男の方の身になったら又どんな理屈があるかも知れないからね」と、若いお花は冷やかに言って、扇で胸をあおいでいた。
「お花さんはとかくに男の方の贔屓《ひいき》ばかりするが、こりゃあちっとおかしいぜ」
「そうかも知れない」と、お花はつんと澄ましていた。「向柳原はいい男だからね」
「姐さんより年下だろう」
「ふたつ違いだから二十歳《はたち》さ」
「色男盛りだな」と、豊は羨ましそうに言った。
「世間に惚れ手もたくさんあらあね。姐さんばかりが女でもあるまい」
「悟ったもんだね」
「悟らなくって、こんな稼業ができるもんかね。姐さんはまだ悟りが開けないんだよ」
「そうかしら。だって、蛇は執念深いというぜ」
「蛇と人間と一緒にされて堪まるもんかね」
「よう、よう。浮気者」と、豊は反り返って手をうった。
「静かにおしよ。舞台へきこえらあね」
 二人はだまって耳を澄ますと、舞台では見物の興をそそり立てるような、三味線の撥音《ばちおと》が調子づいて賑やかにきこえた。
「姐さんはまったくこの頃は顔色がよくないね」と、豊は又ささやいた。
「癇が昂《たか》ぶって焦《じ》れ切っているんだもの。あれじゃあからだにも障るだろうよ。あんなにも男が恋しいものかね」
「浮気者にゃあ判らねえことさ」
「知らないよ。禿《はげ》あたま、畜生、ももんじい[#「ももんじい」に傍点]」と、お花は扇を投げつけて笑ったが、また急に子細らしく顔をしかめて舞台の方を見かえった。
 舞台の三味線の音は吹き消したように鎮まっていた。
「おや、どうしたんだろう」
 見物のざわめく声が俄《にわ》かにきこえた。舞台の上をあわてて駈けてゆく足音もみだれて響いた。一種の不安に襲われた二人は、思わず腰を浮かせて舞台の様子を窺おうとするときに、小女のお君が顔色を変えて楽屋へ駈け込んで来た。
「大変。姐さんが舞台で倒れて……」
 ふたりも飛び上がって舞台へ駈け出した。

     二

 向う両国の観世物小屋でこんな不意の出来事が人を驚かしたのは、文化三年の江戸の秋ももう一日でちょうど最中《もなか》の月を観《み》ようという八月十四日の昼《ひる》の七つ(四時)下がりであった。座がしらのお絹が舞台で突然に倒れたので、見物も楽屋の者も一時は驚いたが、お絹はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。あとは前芸のお花がすこし繋いでいて、それから太夫病気の口上《こうじょう》を述べて、いつもより早目に打ち出した。
 お絹がほんとうに人心地の付いたのはそれから半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ばかりの後で、医者はやはり暑気あたりだといった。しかし、さのみに心配するほどのことはない、こうして静かに寝かして置けば自然におちつくに相違ないと気つけの薬をくれて行った。はじめは非常に驚かされた木戸の者も楽屋の者もこれで漸《ようや》くおちついて、見舞の口上などをいってだんだんに帰った。
 お絹はもう目をあいていたが、それでもすぐに起きる元気はなかった。枕もとには前芸のお花と小女のお君のほかに地弾きのお辰と楽屋番の豊吉《とよきち》とが残っていた。楽屋にはほかにもう一人お若という前芸の女がいるが、これも暑気あたりで二、三日前から休んでいた。その上にお絹がまた病気引きということになれば、この小屋はあしたから休むよりほかはないと、関係の者はすぐにあしたの糧《かて》を気づかったが、こうなるとみんなも生き返ったような気になった。
「まあ、まあ、なにしろよかった。この二、三日はあんまり残暑がひどいからさ。おまけにこの楽屋はちっとも風がはいらないんだからね」
 お辰は病める太夫の枕もとをそっと離れて、楽屋のうしろに垂れている荒筵を少し押し分けると、夕日の光りはもう山の手の高台に隠れて、下町の空は薄い浅黄色に暮れかかっていた。上流《うわて》から一艘の屋根船がしずかに下って来て、大川の秋の水は冷やかに流れていた。近所の小屋もみな打ち出したとみえて、世間は洪水のあとのようにひっそりして、川向うの柳橋の桟橋《さんばし》で人を呼ぶ甲走《かんばし》った女の声が水にひびいて遠く聞えるばかりであった。
「それでも日が落ちると、ずっと秋らしくなるね」と、お辰はもとの枕もとへかえって来た。そうして、お絹の青ざめた頬に団扇の風を軽く送りながら、その力のないひとみを覗き込むようにして訊いた。
「気分はどうですえ。もういいの」
 お絹はうなずくように眼をかすかに動かした。今お辰に声をかけられるまで、彼女の魂は夢とうつつの境にさまよいながら、男と自分との楽しい過去や、切《せつ》ない現在や、悲しい未来や、さまざまの恋の姿を胸の奥に描いていたのであっ
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