一つ小突いた。「お前さんが不二屋のお里とトチ狂っていることは両国でみんな知っているんだよ。さあ、これからあたしと一緒に不二屋へ行って、あたしの眼の前でお里と手を切っておくれ」
林之助はいよいよ煙《けむ》にまかれた。彼が友達と一緒にこのごろ列び茶屋へ入り込むことは事実であった。不二屋のお里とも馴染みであった。しかしどう考えてもお絹からこんな難題を持ち掛けられるような疚《やま》しい覚えはなかった。
「馬鹿だな。誰かにしゃく[#「しゃく」に傍点]られたと見える」と、林之助はなまじ言い訳をしない方が却って自分の潔白を証明するかのように、ただ軽く笑っていた。
それでもお絹はどうしても肯《き》かなかった。彼女はまったく気でも違ったように男にむかって遮二無二《しゃにむに》食ってかかって、邪《じゃ》が非《ひ》でもこれから不二屋へ一緒に行けと言った。彼女の蛇のような眼はいよいよものすごくなって、眼尻には薄紅い血がにじんで来たように見えた。言い訳するよりも、なだめるよりも、林之助は一刻も早くこの怖ろしい眼から逃がれなければならなかった。彼は挨拶もそこそこにして、おびえた心をかかえながら格子の外へ逃げるように出て行ってしまった。
「あれ、姐さん」
跣足《はだし》で追って出ようとするとお絹を、お君はころげるように駈けて来て抱き止めた。
「姐さん、お待ちなさいよ。林さんはもう遠くへ行ってしまったわ」
お絹は燃えるような息をついて土間に突っ立っていた。
「姐さん、嘘よ、嘘よ。お花さんの言うことはみんな嘘よ。林さんはなんにも知りゃあしないのよ。列び茶屋の娘なんて皆んな嘘よ。きっと嘘に相違ないのよ」
嘘という字を幾つも列べて、お君はおどおど[#「おどおど」に傍点]しながらも一生懸命にお絹をなだめようとすると、お絹は解けかかった水色の細紐《しごき》を長く曳きながら、上がり框《がまち》へくずれるように腰をおとした。
「寝衣《ねまき》のまんまでこんなところにいると悪いわ。早く内へおはいんなさいよ」
台所から雑巾《ぞうきん》を持って来て、お君はお絹の足を綺麗に拭いてやって、六畳の寝所《ねどこ》の方へいたわりながら連れ込んだ。お絹は枕を抱えるようにして蒲団の上に俯伏したが、その痩せた肩に大きい波を打っているのを、お君は不安らしく眺めていた。
「さっきのお薬をあげましょうか」
「いいよ、いいよ。あたしに構わずに寝ておしまいよ」と、お絹はうるさそうに俯向きながら言った。
お君は起って格子を閉めに行ったが、やがて引っ返して来てお絹の枕もとに坐った。縁の下でじいじい[#「じいじい」に傍点]と刻んでゆくような虫の声が又もや耳についた。どこかの隙き間から忍び込んで来る夜の冷たい風に、行燈のうす紅い灯が微かにちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と揺らめいて、痩せおとろえた秋の蚊がその火影に迷っていた。
「もうお前、お寝よ。あしたの朝、眠いから」
「あたし、今夜は起きていますわ」
「あたしはもういいんだよ」
「でも、こんなに癇がたっていて、どんなことがあるかも知れませんもの。姐さん、ほんとうにからだを大事にしてくださいよ」
「いいよ、判っているよ」と、お絹は邪慳《じゃけん》に叱りつけた。
叱られてもお君はまだそこにしょんぼりと坐っていた。露地のなかで犬の声がきこえたので、もしや林之助がまた引っ返して来たのではないかと、お君はそっと起って行って雨戸の外に耳を澄ましたが、犬の声はしだいに遠くなって、溝板《どぶいた》の上には誰も忍んでいるような気配もきこえなかった。
「誰か来たの」と、お絹は急に顔をあげた。
「いいえ」と、お君は枕もとへそろそろとまた戻って来た。
「お前、いい加減にしてお寝よ」
「ええ」と、お君はまだ渋っていた。
「言うことを聞かないと承知しないよ」
枕をつかんで叩き付けそうな権幕をみせても、お君はまだ強情に動かなかった。黙って坐っている彼女の小さい眼からは白いしずくがほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と流れていた。それを見ると、お絹は急に堪まらなくなったように、蒲団の上から滑り出してお君のからだを横抱きにしっかりと抱えた。
「君ちゃん、堪忍しておくれよ。あたし、この頃は時どきに癇が起るんだからね。もうなんにも叱りゃあしないよ。ね、ね、いいだろう。これからはいつまでも仲よくしようね」
お君の濡れた顔をじっと見つめながら、お絹は自分も子供のようにしくしくと泣き出した。なんとも言い知れない悲しさが胸の底から滲《にじ》み出して、お君も抱かれながらに啜《すす》り泣きをやめなかった。
五
お絹のおそろしい眼から逃れた林之助は、大川端《おおかわばた》まで来て初めてほっとした。十四日の大きい月はなかぞらに真ん丸く浮き上がって、その影をひたしている大川の波は銀
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