するがいいぜ。悪いようならば無理をしないで、二、三日休んで養生した方がいいだろう」
「いいえ、それほどでもなかろうと思っているの。いっそひと思いに死んだ方がいいかも知れない」
こんな問答をしているうちにも、お絹は眼にみえない何物をか相手の顔色から見いだそうと努めているように、絶えずその顔をじっと見つめていると、男は女のひとみを恐れるように行燈《あんどう》の暗い方へ眼をそむけていた。
女はこの頃の無沙汰について正面から男を責めようともしなかった。男も言いそそくれたようなふうで、自分からはなんにも言い出さなかった。お絹は長い煙管《きせる》でしずかに煙草をすっていた。
「あたし、考えると、さっきあのままで死んでしまった方が仕合せだったかも知れない。生きていたところで、あんまり面白い世の中でもなし、ひと思いに死んでしまった方が未練が残らなくっていい」
ふた口目には死にたいと繰り返して言うお絹の料簡《りょうけん》を、林之助も大抵は察していた。そんなことを言って自分の気を引いて見るのだということは能く判っていた。ここでうっかりした返事をすると、それを言いがかりに執念深く絡《から》みついて来るお絹のいつもの癖を知っている彼は、なるべく逆らわないように避けているのを唯一の楯《たて》と心得ているので、今夜もおとなしく黙って聞いていた。
「君ちゃん。お酒は無いかい」と、お絹は次の間へ声をかけた。
「いや、そうしちゃあいられない。もうすぐに帰らなけりゃあならないんだ。あんまり無沙汰をしているから、唯ちょいと寄って見たのさ。もう五つ過ぎだ。早く帰らなけりゃならない。御用人《ごようにん》がなかなかやかましいから」と、林之助は煙草をそろそろ仕舞いかかった。
「それだから屋敷者は忌《いや》さ。あたしがあんなに止めたのに、お前さんなぜ行ったの。御用人に叱られたって構わない。屋敷をしくじるように、あたしはふだんから祈っているんだから」
「冗談じゃあねえ」と、林之助は仕方なしに笑った。「いつも言う通り、おれも侍の子だ。いつまでもお前の厄介になって唯ぶらぶらしているのもあんまり口惜《くや》しい、どうにかまあ自分だけの身《み》じんまく[#「じんまく」に傍点]は自分でしなけりゃあならないと思って、窮屈な屋敷奉公も我慢しているんだ。おれの料簡も今にわかる。まあ、お互いにもう少しの辛抱だ」
「へん、久しいものさ」
お絹は煙管を取って又すい始めた。そうして、横眼で男の顔をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]眺めていた。その蛇のような眼が男にはおそろしかった。
お絹は色の青白い細面《ほそおもて》で、長い眉と美しい眼とをもっていた。林之助も昔はその妖艶なひとみの力に魅せられたのであった。しかもだんだんと深く馴染むに連れて、殊に一つの屋根の下に朝夕一緒に暮らすようになってから、彼女の妖艶な眼の底に言い知れぬ一種のおそろしい光りの忍んでいることを林之助は漸く発見した。自然の生まれ付きか、あるいは多年もてあそんでいる蛇の感化か、いずれにしてもお絹が蛇のような悽愴《ものすご》い眼をもっていることは争われなかった。お絹が天明五年|巳年《みどし》の生まれであるということも思いあわされて、林之助は迷信的にいよいよ怖ろしくなった。彼がふたたび窮屈の武家生活に立ち戻ろうと思い立ったのも、実はこの怖ろしい眼から逃がれようとするのが第一の目的であった。
しかし林之助は、彼女の怪しい眼を恐れると同時に、彼女のあたたかい情けを忘れるほどの不人情者ではなかった。彼はお絹を振り放そうとは思わなかった。さりとて余りに接近するのも不安であった。つづめて言えば、不即不離《つかずはなれず》というような甚だあいまいな態度で、二人の関係を相変らず繋ぎ合わせて行こうと考えているのであった。恋に対してこうした不徹底な態度を取るということは、決して相手を満足させる方法ではなかった。お絹の胸にいろいろの疑いや妬みの芽をふくのも無理ではなかった。
今夜もそのおそろしい眼と向き合っている。
林之助が努めて相手の視線の外に逃がれ出ようと顔をそむけているのも、彼としてはまことによんどころない事情であった。それが久し振りで逢ったお絹にはなんだか物足りないような、疑わしいもののように思われてならなかった。
二人は又しばらく黙っていた。縁の下では虫の声がきこえた。
四
「林さん。お前さん、お互いにこうしていては詰まらないとお思いでないかえ」
お絹はしずかに煙管をはたきながら、またしても男のこころを探るような疑いぶかい眼をして訊いた。林之助もまともに向き直らないわけにいかなくなった。
「つまる、つまらないの論じゃない。いつも言う通り、今がお互いの辛抱どきだ。そりゃあこうして離れていれば、おれだって寂しいこともある
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