て地に落ちて来ることもあるが、またすぐに飛び揚がってしまって、十に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところでどうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
その泥草鞋があやまって往来の人に打ちあたる場合は少くない。白地の帷子《かたびら》を着た紳士の胸や、白粉《おしろい》をつけた娘の横面などへ泥草鞋がぽん[#「ぽん」に傍点]と飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明《あきら》かに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡りさんは別にそれを咎《とが》めなかったので、わたしたちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
街路樹に柳を栽《う》えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はない。
こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでもいいそうな響きを立てて、深夜の町を軋《きし》って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車の怪談を、私は思い出した。
停車場の趣味
以前は人形や玩具に趣味を有《も》って
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