過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群に離れた孤雁が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかに二声三声つづけて叫んだ。
しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町《こうじまち》のすがたが浮び出した。そこには勿論自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺やトタン葺の家根も見えなかった。家根といえば瓦葺か板葺である。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸く薄れて来るころに、幾羽の雁の群が列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷《ちまた》に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄《こうがい》取らしょ。」
わたしも大きな口をあいて呼んだ。雁の行《つら》は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵ありとでも思うのか、前列後列が俄《にわか》に行を乱して翔《かけ》りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍《う》って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群が遠くなるまで見
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