影に変わって、うす寒い風が吹き出して来た。
 お時は一張羅《いっちょうら》の晴れ着をぬいで、ふだん着の布子《ぬのこ》と着替えた。それから大事そうに抱えて来た大きい風呂敷包みをあけて、扇子や手拭や乾海苔や鯣《するめ》などをたくさんに取り出した。
「お屋敷から頂いて来たんだね」と、十吉もありがたそうに覗《のぞ》いた。
 お時は番町のお屋敷へあがるたびに、いろいろのお土産を頂いて帰るのが例であった。殊にきょうは初春の御年始に伺ったのであるから、何かの下され物はあるだろうと十吉は内々予期してはいたものの、いつもと違ってその分量の多いのに驚かされた。
 日が落ちると急に冷えて来て、春のまだ浅い夕暮れの寒さは、江戸絵を貼った壁の破れから水のように流れ込んで来た。十吉は炉の火をかきおこして夕飯《ゆうめし》の支度にかかった。お時は膳にむかったが、碌《ろく》ろく箸もとらないでぼんやりしていた。
「きょうはお屋敷で御馳走でもあったのかね」と、十吉は笑いながら訊《き》いた。
「どうも困ったことが出来たもんだよ」
 溜め息をついている母の屈託《くったく》らしい顔をのぞいて、十吉も思わず箸をやめた。
「なんだね
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