。お屋敷に何か悪いことでもあったのかね」
「むむ。だが、滅多《めった》にひとに言うのじゃないぞ」と、お時は小声に力をこめて言った。
 話さないさきから厳重に口止めをされて、十吉も変な顔をして黙っていた。
「番町の殿様、飛んでもない道楽者におなりなすったとよ。情けない」
 お時はほろり[#「ほろり」に傍点]とした。十吉はまた箸をやめて、炉の火にひかる母の眼の白い雫《しずく》をうっかりと見つめていた。
 この母子《おやこ》がお屋敷というのは、麹町《こうじまち》番町《ばんちょう》の藤枝外記《ふじえだげき》の屋敷であった。藤枝の家は五百石の旗本で、先代の外記は御書院の番頭《ばんがしら》を勤めていた。当代の外記が生まれた時に、縁があってこのお時が乳母に抱えられた。お時はそのときにお光という娘をもっていたが、生まれて一年ばかりで死んでしまったので、彼女《かれ》は乳の出るのを幸いに藤枝家へ奉公することになった。それはお時が二十二の夏であった。
 殿様も奥様も情けぶかい人であった。いい主人を取り当てたお時は奉公大事に勤め通して、若様が五つのお祝いが済んだとき無事にお暇《いとま》が出た。それから三年目に
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