の情《じょう》なり。されど、われは徒爾に哭して慟する者にあらず、女《おんな》児《こども》のすなる仏いじりに日を泣暮《なきくら》す者にあらず。われは罪なき父の霊の、恵《めぐみ》ふかき上帝《かみ》の御側《みそば》に救い取られしを信じて疑わず、後世《ごせ》安楽を信じて惑わず、更に起《た》って我一身のため、わが一家のため、奮って世と戦わんとするものなり。哀悼《あいとう》愁傷、号泣慟哭、一|枝《し》の花に涙を灑《そそ》ぎ、一|縷《る》の香に魂《こん》を招く、これ必ずしも先人に奉ずるの道にあらざるべし。五尺の男子、空しく児女の啼《てい》を為《な》すとも、父の霊|豈《あに》懌《よろこ》び給わんや。あるいは恐る、日ごろ心|猛《たけ》かりし父の、地下より跳《おど》り出《い》でて我を笞《むちう》つこと三百、声を励まして我が意気地《いくじ》なきを責め、わが腑甲斐《ふがい》なきを懲《こら》し給わんか。
 孔子いわずや、四海《しかい》皆|兄弟《けいてい》なりと、人誰か兄弟なきを憂いん。基督《クリスト》いわずや、わが天に在《いま》す父の旨《むね》を行う者はこれわが兄弟わが姉妹わが母なりと、人誰か父母なきを憂いん。
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