」に傍点]と袖にたばしりて、満目荒凉、闇《くら》く寒く物すごき日なりき。この凄じき厳冬の日、姪の墓前に涙《なんだ》をそそぎし我は、翌《あく》る今年の長閑《のどか》に静なる暮春のこの夕《ゆうべ》、更にここに来りて父の墓に哭《こく》せんとは、人事|畢竟《ひっきょう》夢の如し。誰《たれ》か寒き冬を嫌いて、暖き春を喜ぶものぞ、詮《せん》ずれば果敢《はか》なき蝴蝶の夢なり。
 然れども思え、いたずらに哭して慟《どう》して、墓前の花に灑《そそ》ぎ尽したる我が千行《せんこう》の涙《なんだ》、果して慈父が泉下の心に協《かな》うべきか、いわゆる「父の菩提《ぼだい》」を吊《とむら》い得べきか。墓標は動かず、物いわねど、花筒《はなづつ》の草葉にそよぐ夕風の声、否《いな》とわが耳に囁《ささや》くように聞ゆ。これあるいは父の声にあらずや。
 遊《ゆ》く水は再び還《かえ》らず、魯陽《ろよう》の戈《ほこ》は落日を招き還《かえ》しぬと聞きたれど、何人も死者を泉下より呼起《よびおこ》すべき術《すべ》を知らぬ限《かぎり》は、われも徒爾《いたずら》に帰らぬ人を慕うの女々《めめ》しく愚痴なるを知る、知って猶《なお》慕うは自然
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