が不足でこの播磨を疑うたぞ。
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(お菊の襟髪をつかんで小突きまはす。お菊は倒れながらに泣く。)
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お菊 その疑ひももう晴れました。お免《ゆる》しなされてくださりませ。
播磨 いゝや、そちの疑ひは晴れようとも、うたがはれた播磨の無念は晴れぬ。小石川の伯母はおろか、親類一門がなんと云はうとも、決してほかの妻は迎へぬと、あれほど誓うたをなんと聞いた。さあ、確《しか》と申せ。なにが不足でこの播磨を疑うた。なにを証拠にこの播磨を疑うた。
お菊 おまへ様のお心に曇りのないは、不断からよく知つてゐながらも、女の浅い心からつい疑うたはわたくしが重々のあやまり、真平御免《まつぴらごめん》くださりませ。
播磨 今となつて詫びようとも、罪のないものを一旦疑うた、おのれの罪は生涯消えぬぞ。さあ、覚悟してそれへ直れ。
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(播磨はお菊を突き放して、刀をひき寄せる。下の方より庭づたひに奴《やつこ》權次走り出づ。)
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權次 もし、殿様しばらくお控へ下さりませ。さつきから物蔭で窃《そつ》と立聞きをして居りましたら、お菊どのが大切のお皿を割つたとやら、砕いたとやら、そりやもうお菊殿の落度は重々、そのかぼそい素《そ》つ首《くび》をころりと打落されても、是非もない羽目ではござるものの、多寡《たくわ》が女子ぢや。骨のない海月《くらげ》や豆腐を料理なされてもなんの御手堪《おてごた》へもござるまい。さつきの喧嘩とは訳が違ひまする。こゝは何分この奴に免じて、そのお刀はお納めなされて下さりませ。
播磨 そちが折角の取りなしぢやが、この女の罪は赦《ゆる》されぬ。なんにも云はずに見物いたせ。
權次 一旦かうと云ひ出したら、あとへは引かぬ御気性は、奴もかねて呑み込んでは居りまするが、なんぼ大切の御道具ぢやと云うても、ひとりの命を一枚の皿と取替へるとは、このごろ流行《はや》る取替べえの飴よりも余り無雑作の話ではござりませぬか。どうでもお胸が晴れぬとあれば、殿さまの御名代《ごみやうだい》にこの奴が、女の頬桁《ほゝげた》ふたつ三つ殴倒《はりたふ》して、それで御仕置はお止めになされ。
播磨 えゝ、播磨が今日の無念さは、おのれ等の奴が知るところでない。いかに大切の宝なりとも、人ひとりの命を一枚の皿に替へようとは思はぬ。皿が惜さにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡《れうけん》ちがひぢや。菊。その皿をこれへ出せ。
お菊 はい。
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(時の鐘きこゆ。お菊は箱より恐る/\一枚の皿を出す。播磨はその皿を刀の鍔《つば》に打ちあてて割るに、お菊も權次もおどろく。)
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播磨 それ、一枚……。菊、あとを数へい。
お菊 二枚……。
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(お菊は皿を出す。播磨は又もや打割る。)
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播磨 それ、二枚……。次を出せ。
お菊 三枚……。
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(播磨はまた打割る。權次も思はずのび上る。)
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權次 おゝ、三枚……。
播磨 次を出せ。
お菊 四枚……。
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(播磨は又もや打割る。)
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播磨 四枚……。もう無いか。
お菊 あとの五枚はお仙殿が別のお箱へ入れて持つてまゐりました。
播磨 むゝ。播磨が皿を惜むのでないのは、菊にも權次にも判つたであらうな。青山播磨は五枚十枚の皿を惜んで、人の命を取るほどの無慈悲な男でない。
權次 それほど無慈悲でないならば、なんでむざ/\御成敗を……。
播磨 そちには判らぬ。黙つてをれ。しかし菊には合点がまゐつた筈。潔白な男のまことを疑うた、女の罪は重いと知れ。
お菊 はい、よう合点《がてん》がまゐりました。このうへはどのやうな御仕置を受けませうとも、思ひ残すことはござりませぬ。女が一生に一度の男。(播磨の顔を見る。)恋にいつはりの無かつたことを、確かにそれと見きはめましたら、死んでも本望でござりまする。
播磨 もし偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつはりならぬ恋を疑はれ、重代の宝を打割つてまで試されては、どうでも赦すことは相成らぬ。それ、覚悟して庭へ出い。
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(お菊の襟髪を取つて庭へつき落す。權次はあわててお菊を囲ふ。播磨は庭下駄をはきて降り立つ。――)
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