お菊 いえ、嫌ひではござりませぬが、母を御屋敷へ連れてまゐりまするには、なにも彼も打明けねばなりませぬ。
播磨 なにもかも……。(打笑む。)隠すことはない。母にも打明けたらよいではないか。
お菊 でも……。それは……。(恥かしげにうつむく。)
播磨 恥かしいか。もう斯うなつたら誰に憚《はゞか》ることもない。天下の旗本青山播磨を婿《むこ》にきめましたと、母のまへで立派に云へ。
お菊 云うても大事ござりませぬか。
播磨 そちの口から云はれずば、母を兎もかくも屋敷へ連れてまゐれ。わしから直々に打明けて申すわ。若しその時に、母が播磨を婿にするは不承知ぢやと申しても、そちは矢はりこゝに居るであらうな。
お菊 たとひ母がなんと申しませうとも……。
播磨 いつまでもこゝに居るか。
お菊 はい。
播磨 それを屹《きつ》と忘るゝなよ。
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(二人は顔を見あはせて打笑む。上の方より十太夫足早に出づ。)
十太夫 殿様。その菊と申す女は重々|不埒《ふらち》な者でござりまする。(敦圉《いきま》いて云ふ。)
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播磨 なにが不埒ぢや。皿を割つたのは粗相と申すではないか。それともまだほかに何か曲事《きよくじ》を働いたか。
十太夫 いや、その皿を割つたのは粗相ではござりませぬ。縁の柱にうち付けて、自分で割つたと申すこと。
播磨 自分でわざと割つたと申すか。
十太夫 朋輩のお仙がたしかに見届けたと申しまする。粗相とあれば致方もござりませぬが、大切のお品をわざと打割つたとは、あまりに法外の致し方。殿様が御勘弁なされても、手前が不承知でござります。きつと吟味をいたさねば相成りませぬ。
播磨 さりとは不思議のことを聞くものぢや。こりや菊。さだめて粗相であらうな。
十太夫 いや、粗相とは云はせませぬ。
播磨 はて、騒ぐな。どうぢや、菊。十太夫はあのやうに申して居るが、よもやさうではあるまいな。はつきりと申開きをいたせ。
お菊 (胸を据ゑて。)実は御用人様のおつしやる通り……。
播磨 わざと自分の手で打割つたか。
お菊 はい。
播磨 むゝ。(十太夫と顔を見あはせる。)さりとて気が狂うたとも思はれぬ。それにはなにか仔細があらう。わしが直々に吟味する。十太夫はしばらく遠慮いたせ。
十太夫 いや、はや、呆れた女でござる。こりや、菊……。
播磨 (じれる。)よい、よい。早くゆけ。
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(十太夫は上のかたに引返して去る。)
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播磨 こりや、菊。そちはなんと心得て、わざと大切の皿を割つた。仔細を申せ。(物柔かに云ふ。)
お菊 おそれ入りましてござりまする。
播磨 最前も申す通り、その皿を割れば手討に逢うても是非ないのぢや。それを知りつゝ自分の手で、わざと打割りしとあるからは、よく/\の仔細がなくてはなるまい。つゝまず云へ。どうぢや。
お菊 もう此上はなにをお隠し申しませう。由ないわたくしの疑ひから。
播磨 疑ひとはなんの疑ひぢや。
お菊 殿様のお心をうたがひまして……。
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(播磨はだまつてお菊の顔を睨む。)
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お菊 このあひだも、鳥渡《ちよつと》お耳に入れました通り、小石川の伯母御様が御媒介で、どこやらの御屋敷から奥様がお輿入《こしい》れになるかも知れぬといふお噂、あけても暮れてもそればつかりが胸につかへて……。恐れながら殿様のお心を試さうとて……。
播磨 むゝ、それで大方仔細は読めた。それに就いてこの播磨が、そちを唯一時の花とながめて居るか、但しは、いつまでも見捨てぬ心か。その本心を探らうために、わざと大切の皿を打破つて、皿が大事か、そちが大事か、播磨が性根をたしかに見届けようと致したのであらう。菊、たしかにさうか。
お菊 はい。
播磨 それに相違ないか。
お菊 はい。
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(播磨は矢庭にお菊の襟髪を取つて縁にねぢ伏せる。)
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播磨 えゝ、おのれ、それ程までにして我が心を試さうとは、あまりと云へば憎い奴。こりやよく聞け。天下の旗本青山播磨が、恋には主家来の隔てなく、召仕へのそちと云ひかはして、日本中の花と見るはわが宿の菊一輪と、弓矢八幡、律義《りつぎ》一方の三河武士がたゞ一筋に思ひつめて、白柄組のつきあひにも吉原へは一度も足ぶみせず、丹前風呂でも女子のさかづきは手に取らず。かたき同士の町奴と三日喧嘩せぬ法もあれ、一夜でもそちの傍を離れまいと、かたい義理を守つてゐるのが、嘘や偽りでなることか、積《つも》つてみても知るゝ筈。なに
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