げ]
播磨 權次。邪魔するな。退け、退け。
權次 殿様。女を斬るとお刀が汚れまする。一旦|柄《つか》へかけた手の遣り場がないといふならば、おゝ、さうぢや。あれ、あの井戸端の柳の幹でも、すつぱりとお遣りなされませ。
播磨 馬鹿を申すな。退かぬとおのれ蹴殺すぞ。
[#ここから2字下げ]
(權次が遮るを播磨は払ひ退けて、お菊を前にひき出す。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
權次 えゝ、殺生な殿様ぢや。お止しなされ、お止しなされ。
[#ここから2字下げ]
(權次また取付くを播磨は蹴倒す。お菊は尋常に手を合はせてゐる。播磨は一刀にその肩先より切り倒す。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
權次 おゝ、たうとう遣つておしまひなされたか。(起き上る。)可哀相になう。
播磨 女の死骸は井戸へなげ捨てい。
權次 はあ。
[#ここから2字下げ]
(權次はお菊の死骸をだき起す。上の方より十太夫は灯籠をさげて出づ。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
十太夫 おゝ、菊は御手討に相成りましたか。不憫のやうでござりまするが、心柄《こゝろがら》いたし方もござりませぬ。
權次 殿様お指図ぢや。(井戸を指す。)手伝うてくだされ。
十太夫 これは難儀な役ぢやな。待て、待て。
[#ここから2字下げ]
(十太夫は袴の股立《もゝだち》を取り、權次と一緒にお菊の死骸を上手の井戸に沈める。播磨は立ち寄つて井戸をのぞく。鐘の声。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
播磨 家重代の宝も砕けた。播磨が一生の恋もほろびた。
[#ここから2字下げ]
(下の方より權六走り出づ。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
權六 申上げます。水野十郎左衞門様これへお越しの途中で町奴どもに道を遮られ、相手は大勢、なにか彼やと云ひがかり、喧嘩の花が咲きさうでござりまする。
權次 むゝ、そんならまだ先刻の奴等が、そこらにうろついてゐたと見えるな。
播磨 よし、播磨がすぐに駈け付けて、町奴どもを追ひ散らしてくれるわ。
[#ここから2字下げ]
(播磨は股立を取りて縁にあがり、承塵《なげし》にかけたる槍の鞘《さや》を払つて庭にかけ降りる。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
十太夫 殿様。又しても喧嘩沙汰は……。
播磨 やめいと申すか。一生の恋をうしなうて……。(井戸を見かへる。)あたら男一匹がこれからは何をして生くる身ぞ。伯母御の御勘当受けうとまゝよ。八百八町を暴れあるいて、毎日毎晩喧嘩商売。その手はじめに……。(槍を取直して。)奴。まゐれ。
二人 はあ。
[#ここから2字下げ]
(播磨は足袋はだしのまゝに走りゆく。權次權六も身づくろひして後につゞく。十太夫はあとを見送る。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――幕――
[#地から1字上げ](大正五年一月)



底本:「現代日本文學全集 56 小杉天外 小栗風葉 岡本綺堂 眞山青果集」筑摩書房
   1957(昭和32)年6月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を「新字、旧仮名」にあらためました。
入力:清十郎
校正:小林繁雄
2001年4月20日公開
2005年11月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング