おかみさんだけは駕籠で、男共は歩いて参りました。日の長い時節ではございますが、途中で休み休み参りましたので、府中の宿《しゅく》へ着きました頃には、もう薄暗くなって居りました。さてこのお祭りには初めて参ったのでございますが、噂に聞いたよりも大層な繁昌で、土地馴れない者はまごつく位、それでもどうやら釜屋という宿屋に泊めて貰うことになりましたが、その宿屋がまた大変な混雑で、これでは困ると思ったのですが、どこの宿屋も今夜はみんなこの通りだと聞かされて、まあ我慢することになりました」
「わたしもこの三月、府中に泊まりましたが、ふだんの時だから至ってひっそりしていました」と、半七は笑った。「しかしお祭りの時は大変だと、女中たちも云っていましたよ」
「まったく案外でございました」と、治兵衛は溜め息をついた。「それほど大きくもない宿屋に百何十人という泊まりですから、一つの部屋に十五人も二十人も押し込まれて、坐る所もないような始末。お夜食の膳もめいめいが台所へ行って、自分が貰って来なければならない。まるで火事場のような騒ぎでございます。こんな事と知ったら来るのじゃあなかったと、おかみさんも後悔していましたが、今さら帰るにも帰られず、まあ小さくなって辛抱して居りますと、やがて四ツ(午後十時)過ぎでもございましょうか、唯今お神輿《みこし》のお通りでございます。灯を消しますと触れて廻る声がきこえたかと思うと、内も外も一度に灯を消して真っ暗になってしまいました。
 それ、お通りだというので、我れも我れもと店さきへ手探りながら駈け出しましたが、なんにも見えません。暗いなかでお神輿の金物《かなもの》がからりからりと鳴る音と、それを担いで行く白丁《はくちょう》の足音がしとしとと聞こえるばかり。お神輿は上の町のお旅所《たびしょ》へ送られて、暗闇のなかで配膳の式があるのだそうで……。そのあいだは内も外も真っ暗でございます。夜なかの八ツ(午前二時)頃に式を終りますと、一度にぱっと灯をつけて、町じゅうは急に明るくなりました。くどくど申す通り、それまでは真の闇で、どこに誰がいるか、さっぱり判りませんでしたが、さて明るくなって見ると、おかみさんの姿が見付かりません。若旦那も孫太郎も、わたくしも心配して、混雑のなかを抜けつ潜《くぐ》りつ、そこらを頻りに探して歩きましたが、どうしても姿が見えません。
 なにしろ夜なかではあり、大変な混雑ですから、どうすることも出来ません。夜が明けたら何処からか出て来るだろうと、三人は一睡も致さずに、夜の白らむのを待って居りましたが、おかみさんの姿はどうしても見えません。そのうちに日が高くなって、ほかの客はだんだんに引き揚げてしまいましたが、わたくし共は帰ることが出来ません。宿屋の者にも頼みまして、心あたりを隈なく探させましたが、なんにも手がかりがございません。その晩はとうとう府中に泊まりましたが、おかみさんは帰って参りません。店の方でも心配しているだろうと存じまして、三人相談の上で、孫太郎だけが府中に残り、若旦那とわたくしは早駕籠で江戸へ戻りました。
 主人もおどろきまして、親類などを呼びあつめて、ゆうべは夜の更けるまでいろいろ相談を致しましたが、みんなも心配するばかりで、さてどうという知恵もございません。町内の下駄屋さんがこの幸次郎さんとお心安くしていると云うことを聞きまして……」
「そういうわけで、わっしの所へ頼みに来なすったのですが……」と、幸次郎は取りなすように云った。「わっし一人で請け合うわけにゃあ行かねえ。まして江戸から五里七里と踏み出す仕事だから、親分にすがって何とかして貰おうと云うので、こうして一緒に出て来たのですが、どうでしょう、なんとかなりますめえか。番頭さんもひどく心配していなさるんですが……」
「若い者では無し、いい年をしたわたくしが供をして参りまして、おかみさんの姿を見失ったと申しては、主人は勿論、世間に対しても申し訳がございません。これがお武家ならば、腹でも切らなければならない処でございます。親分さん。お察しください」
 四十男の治兵衛が涙をうかべて頼むのである。殊に幸次郎の口添えもある以上、半七も断わるわけにも行かなくなった。
「まあ、ようござんす。出来ることか出来ないことか知りませんが、折角のお頼みですから、なんとかやってみましょう」と、半七は請け合った。「おい、幸。この春、初めて府中へ行ったのも、何かの因縁かも知れねえ」
「そうですねえ」と、幸次郎もうなずいた。「そこで、親分。この番頭さんに何か訊いて置くことはありませんかえ」
「大有りだ。早速だが、そのおかみさんというのは幾つで、どんな人ですね」
「おかみさんはお八重と申しまして、十八の年に伊豆屋へ縁付いてまいりまして、翌年に総領息子の長三郎を生みました。
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