その長三郎が当年|二十歳《はたち》になりますから、おかみさんは三十八で、容貌《きりょう》も悪くなく、年よりも若く見える方でございます」
治兵衛は半七の問いに対して、伊豆屋は四谷坂町に五代も暖簾《のれん》をかけている旧い店で、屋敷方の得意さきも多く、地所家作も相当に持っていて身上《しんしょう》も悪くない。主人の長四郎は四十三歳で、子供は長三郎のほかに、十七歳の四万吉《よもきち》、十四歳のお初がある。奉公人は自分のほかに、若い者が三人、小僧が二人、女中二人、あわせて十三人の家内であると答えた。
「おまえさんの家《うち》では塩町の和泉屋という呉服屋を御存じですかえ」と、半七は突然に訊いた。
「和泉屋さんは存じて居ります。別に親類というのではございませんが、先代からお附き合いをいたして居ります」
「和泉屋の息子は飛んだ事でしたね」
「まったく飛んだ事で……。あの一件につきましては、和泉屋さんでも、息子の死骸を引き取るやら何やかやで、随分の物入りであったそうで、なんとも申しようがございません。そんな一件がありますので、今度の府中行きも、主人は少し考えて居りました。わたくしも何だか気が進まなかったのでございますが、おかみさんが是非一度見物したいと申しますので、とうとう思い切って出かける事になりますと、又ぞろこんな事が起こりまして……。やっぱり止せばよかったと、今さら後悔して居りますような訳でございます」
「和泉屋の奉公人で、息子と一緒に府中へ行った者がありましたね」と、半七はまた訊いた。
「はい。幾次郎と申す者でございます」と、治兵衛は答えた。「これがちっと道楽者で、主人の息子を調布の女郎屋へ誘い込みましたのが間違いのもとで、それからあんな事になりましたので、主人に対しても申し訳のない次第でございますが、幾次郎は唯の奉公人でなく、主人の遠縁にあたる者でございますので、まあ、そのままに勤めて居ります」
「幾次郎は幾つでしたね」
「たしか、二十三かと思います。唯今も申す通り、堅気の呉服屋の手代にはちっと不似合いの道楽者で、近所の常盤津の師匠のところへ稽古に行くなぞという噂もございます」
「その幾次郎はお店へも来ることがありますか」
「ときどきには参ります」
それからまだ二つ三つの話をして、治兵衛は帰った。帰る時にも彼は何分お願い申しますと、幾たびか繰り返して頼んで行った。
四
「親分、どうですかね。大抵見当は付きましたか」と、幸次郎は訊いた。
「そう手軽にも行かねえ」と、半七は笑った。「去年の心中一件と、今度の一件と、まるで縁のねえ事か、それとも何かの糸が繋がっているのか、まずそれを考えなけりゃならねえ」
「友蔵の奴が又なにかやったかね」
「おれもそんな事をかんがえたが、若い娘ならばともかくも、やがて四十に手のとどく女房をかどわかすということもあるめえ。いくら暗闇だって、まわりに大勢の人がいるのだから、きゃあ[#「きゃあ」に傍点]とか何とか声を立てるぐらいのことは出来そうなものだ。まさかに友蔵に引っ担いで行かれたのでもあるめえ。おれももう少し考えるから、おめえは善ぱと手分けをして、伊豆屋と和泉屋の内幕を探ってくれ」
「こうなると此の春、府中へ行って来て好うござんしたね」
「むむ。なにが仕合わせになるか判らねえ。だしぬけにこんな事を持ち込まれたのじゃあ見当が付かねえ」
幸次郎を出してやって、半七は又しばらく考えた。伊豆屋の番頭の話だけでは詳しいことは判らない。番頭もまた一家の秘密を洩らすまい。したがって、その話のほかに、伊豆屋と和泉屋にからんで如何なる秘密がひそんでいないとも限らない。所詮《しょせん》は幸次郎と善八の報告を待って、それから正確の判断をくだすのほかはなかったが、半七は平生の癖として、ともかくも今までに与えられた材料によって一応の推測を試みようとした。中《あた》っても外《はず》れても、考えるだけは考えなければ気が済まないのであった。
表には苗売りの声がきこえた。けさから催していた雨がしずかに降って来た。その雨の音を聞きながら、半七は居眠りでもしたように目を瞑《と》じていたが、やがて手拭いと傘を持って町内の銭湯へ出て行った。
雨はだんだんに強くなって、夕暮れに近い空の色はますます暗くなった。湯から帰って来た半七の顔色も暗かった。子分ら二人が何かの報告を持って来るまでは、自分の肚《はら》をはっきりと決め兼ねたのである。
雨は明くる日も降りつづいて、本式の梅雨空《つゆぞら》となった。その日の暮れかかる頃に、善八が先ず顔をみせた。
「いよいよ梅雨になりました。ゆうべ幸次郎の話を聞いたので、けさから早速取りかかりました」
「おめえはどっちへ廻ったのだ」と、半七は待ち兼ねたように訊いた。
「わっしは塩町の呉服屋の方です
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