半七捕物帳
二人女房
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)訊《き》いた。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)息子|清七《せいしち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あっ[#「あっ」に傍点]
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一
四月なかばの土曜日の宵である。
「どうです。あしたのお天気は……」と、半七老人は訊《き》いた。
「ちっと曇っているようです」と、わたしは答えた。
「花どきはどうも困ります」と、老人は眉をよせた。「それでもあなた方はお花見にお出かけでしょう」
「降りさえしなければ出かけようかと思っています」
「どちらへ……」
「小金井です」
「はあ、小金井……。汽車はずいぶん込むそうですね」
「殊にあしたは日曜ですから、思いやられます」
「それでも当節は汽車の便利があるから、楽に日帰りが出来ます。むかしは新宿から淀橋、中野、高円寺、馬橋、荻窪、遅野井、ぼくや横町、石橋、吉祥寺、関前……これが江戸から小金井へゆく近道ということになっていましたが、歩いてみるとなかなか遠い。ここで一日ゆっくりお花見をすると、どうしても一泊しなければならない。小金井橋のあたりに二、三軒の料理屋があって、それが旅籠《はたご》を兼業ですから、大抵はそこに泊めてもらうことになるのですが、料理屋といっても田舎茶屋で、江戸から行った者にはずいぶん難儀でした」
「あなたもお出でになった事があるんですね」
「ありますよ」と、老人は笑った。「小金井の桜のいいことは、かねて聞いていましたが、今も申す通り、なにぶん道中が長いので、つい出おくれていましたが、忘れもしない嘉永二年、浅草の源空寺で幡随院長兵衛の三百回忌の法事があった年でした。長兵衛の法事は四月の十三日でしたが、この三月の十九日に子分の幸次郎と善八をつれて、初めて小金井へ遠出《とおで》を試みたと云う訳です。武家ならば陣笠でもかぶって、馬上の遠乗りというところですが、われわれ町人はそうは行かない。脚絆《きゃはん》をはいて、草履を穿《は》いて、こんにちでいう遠足のこしらえで、三人は早朝から山の手へのぼって、新宿、淀橋、中野と道順をおって徒《かち》あるきです。旧暦の三月ですから、日中は少し暖か過ぎる位でした。今から思うと、むかしの人間は万事が悠長だったのですね。途中の茶店などに幾たびか休んで、のん気に又ぶらぶら歩いて行く。それを保養と心得ていたのですよ。はははははは」
「しかしそれが本当の保養でしょう。今日のように、汽車に乗るにも気違いのような騒ぎじゃあ、遊びに行くのか、苦しみに行くのか判りません。どう考えても、ほんとうの花見は昔のことでしょうね。そこで、その時には別に変ったお話もありませんでしたか」
「ありましたよ」と、老人は又笑った。「犬もあるけば棒にあたると云いますが、わたくし共が出あるくと不思議に何かにぶつかるのですね。その時も小金井までは道中無事、小金井橋の近所で午飯《ひるめし》を食ってそこらの花をゆっくり見物して、ここでお泊まりにしてしまえば、まあ無事だったわけですが、どうせ泊まるなら府中の宿《しゅく》まで伸《の》そうと云うことになって、いずれも足の達者な奴らが揃っているので、畑のあいだの道を縫って甲州街道へ出て、小金井からおよそ一里半、府中の宿へ行き着いて、宿の中ほどの柏屋という宿屋にはいりましたが、まだ日が高いので、六所《ろくしょ》明神へ参詣ということになりました。闇祭りで有名の六所明神、ここへ来た以上は、一度参詣をしなければならないというわけです。あなたはお参りをなすった事がありますか」
「いいえ、小金井には学校時代に一度遠足に行った事があるだけで、府中は知りません」
「それでは少し説明をして置かなければならない。と云うのは、社《やしろ》の入口から随身門までおよそ一丁半、路の左右は松と杉の森で、四抱えも五抱えもあるような大木が天を凌《しの》いで生い茂っています。その森の梢にはたくさんの鷺《さぎ》や鵜《う》が棲んでいるが、寒《かん》三十日のあいだは皆んな何処へか立ち去って、寒が明けると又帰って来る。それが年々一日も違わないので、ここでは七不思議の一つと云われています。そこで、その鷺や鵜は品川の海や多摩川のあたりまで飛んで行って、いろいろの魚《さかな》をくわえて来るが、時にはあやまって其の魚を木の上から落とすことがある。土地の女子供はそれを見つけて拾って来る。ここらは海の遠い所ですが、鳥のおかげで、案外に海魚《うみうお》の新らしいのを拾うことが出来ると云うのは、何が仕合わせになるか判りません。早く云えば天から魚が降って来るようなわけで……」
「おもしろい話ですね。今でもそうでしょうか」
「さあ、今はどうだか知りませんが、昔は
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