いに江戸じゅうを逃げて見せるなんて、大きなことを云っていました」
 その捕物の前後の話などを聞いて、半七は一旦ここを出ると、傘はいよいよお荷物になって、薄い月影が洩れて来た。ここまで来たついでに神明前をたずねてみようと、彼は雨あがりのぬかるみを踏んで、さつきの門口《かどぐち》へ行き着くと、小さい暖簾をかけた店の右側に帳場がある。その前に腰をかけていた男が立ち上がった。
「じゃあ、どうしてもいけねえと云うのかえ」
 内の返事はきこえなかったが、男は嚇《おど》すように云った。
「じゃあ仕方がねえ、この先き、何事が起こっても俺あ知らねえ。その時になって恨みなさんな」
 暖簾をくぐって出る男の前に、半七は立ち塞がった。
「兄い。ちょいと待ってくれ」
「誰だ、おめえは……」と、男は眼を三角にして半七を睨んだ。
「おめえは千次さんじゃあねえか」
「ひとの名を訊く前に、自分の名を云え。それが礼儀だ」
「礼儀咎めをされちゃあ名乗らねえわけにも行かねえ。わっしは三河町の半七だ」
 半七と聞いて、男は俄かに顔の色をやわらげた。彼は衣紋《えもん》を直しながらおとなしく挨拶した。
「やあ、三河町の親分でしたか
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