元来が一種の道場のような伽藍洞《がらんどう》の建物であるから、別に半七の注意をひくようなものも見いだされなかった。彼はここを出て、さらに長屋の周囲を一巡した。
 その当時の内神田はこんにちの姿とまったく相違して、神保町《じんぼうちょう》、猿楽町《さるがくちょう》、小川町のあたりはすべて大小の武家屋敷で、町屋《まちや》は一軒もなかったのである。小川町の歩兵屯所も土屋|采女正《うねめのしょう》と稲葉|長門守《ながとのかみ》の屋敷の建物はみな取り払われて、ここに新らしい長屋と練兵の広場を作ったのであるが、ある一部には昔の庭の形が幾分か残されている所もあった。第二小隊の井戸のそばには築山があった。この築山も昔は相当の手入れをして、定めて風致あるものと察せられたが、一年あまりの後には荒れに荒れて、六、七本の立ち木がおい茂っているばかりであった。そのなかに八重桜の大樹が今を盛りに咲き乱れているのを、風流気の乏しい半七も思わず見あげた。
「よく咲きましたね」
「むむ、よく咲いた」と、根井も見あげた。「伐るのも惜しいのでこうして置くが、桜もこんなところで咲いては張り合いがあるまい。なにしろ殺風景の世界
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