薄明るいとはいいながら、日暮れがたに早桶をかつぎ出すのに無提灯はおかしいと、多吉は摺れちがいながらに、その二人の顔を透かして視ると、なんと思ったか二人は俄かにうろたえて、かついでいる早桶を大川へざんぶりと投げ込んで、一目散《いちもくさん》に引っ返して逃げ出したのです。多吉もいささか面くらって、そのあとを追っかける元気もなく、唯ぼんやりと見送っていましたが、なにしろ早桶をほうり込んだのを、其のままにして置くわけには行かないので、取りあえず東両国の橋番小屋へ駈け着けて、舟を出してもらいました。
おおかた此の辺であったかと思った所を探してみると、果たして新らしい早桶が引き揚げられました。その早桶の蓋をあけると、三十前後の男の死骸があらわれました。死骸は素っ裸で、どこにも疵の痕はありません。まず普通の病死らしく見えるのですが、唯ひとつ不思議なのは、そのひたいのまん中に『犬』という字が筆太《ふでぶと》に書いてあるのでした。いかに貧乏人でも古《ふる》浴衣《ゆかた》ぐらいは着せてやるのが当然であるのに、この死骸は素っ裸にされて、額《ひたい》には犬と書かれている。これには何かの仔細がありそうだと、多
前へ
次へ
全45ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング