《なかやま》に続いているんですが、峠の麓《ふもと》に一軒の休み茶屋がありました。立場《たてば》というほどでは無いんですが、休んだ旅人《たびびと》には番茶を出して駄菓子を食わせる。有り合いの肴で酒ぐらいは飲ませるという家で、その茶屋の亭主が宗兵衛、女房がお竹、夫婦二人で商売をしていたんです。宗兵衛は三州岡崎の生まれですが、道楽のために家を潰して金谷の宿へ流れ込んで来た者で、女房のお竹は岡崎女郎衆の果てだそうです。それでも夫婦が無事に暮らしていると、ある日の午過ぎに、武家の中間《ちゅうげん》ふうの男が一人通りかかって、この店に休んで酒なぞを飲んでいたんですが、そのうちに急に気分が悪くなったから、少しのあいだ寝かしてくれと云うので、夫婦の寝所《ねどこ》になっている奥の間へ通して、ともかくも寝かして置くと、男は日の暮れる頃まで起きることが出来ない。だんだんに容態が悪くなって来るらしい。その頃のことですから、近所に医者もないので、夫婦は有り合わせの薬なぞを飲ませて介抱した。そこは人情で、夫婦も見識らない旅の男を親切に看病してやったらしいんです。
 その看病の効《かい》があったのか、一時はむずかしそうに見えた病人も、明くる朝からだんだんに落ちついて、その日の午飯には粥を食うようになったので、まあ好かったと喜んでいると、七ツ下がり(午後四時過ぎ)になってから、旅の男はもうすっかり快《よ》くなったから発《た》つと云い出した。秋の日は短い、やがて暮れるという時刻になって峠を越すよりも、もうひと晩泊まって養生して、あしたの朝早く発っことにしたら好かろうと勧めたが、男はさきを急ぐとみえて無理に振り切って出て行った。その別れぎわに、男はきのうから世話になったお礼をしたいが、路用は手薄《てうす》であるし、ほかには持ち合わせも無いから、これを置いて行く。しかし今すぐに使ってはいけない。まあ半年ぐらいは仏壇の抽斗《ひきだし》へ仕舞って置くがいいと、謎のようなことを云い残して、一本の大きい蝋燭をくれて行きました」
「それが例の蝋燭なんですね」
 わたしは待ち兼ねて、思わず口を出した。話の腰を折られても、老人は別にいやな顔を見せなかった。
「その男の云った通りにしたならば、夫婦も余計な罪を作らずに済んだのかも知れませんが、折角くれた蝋燭を今すぐに使ってはいけないと云う。それが何だかおかしいばかりでな
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