の戸をたたいて、「庄さん、庄さん」と呼んだのは、今度の下手人と目指されている平七の声である。次に鋳かけ屋の戸をたたいて「平さんは来なかったか」と呼んだのは、亭主の庄五郎の声で、実は藤次郎の声色だというのである。最後に戸を叩いて「おかみさん、おかみさん」と、呼んだのは、藤次郎の声である――この三つの声について、半七はいろいろ考えさせられた。
「おい、お仙」と、彼はやがて女房を呼んだ。「ちょいと出てくるから着物を出してくれ」
「これから何処へ出かけるの」
「熊のところまで行ってくる。あしたと約束したのだが、思いついたら早い方がいい。このごろは日が長げえから」
まったくこの頃の日は長い。半七が神田の家を出たのはもう七ツ(午後四時)に近いころであったが、初夏の大空はまだ青々と明るく光っていた。表には金魚を売る声がきこえた。愛宕下へ行って熊蔵の湯屋をたずねたが、店はもう客の忙がしい刻限であったので、半七は裏口へまわってそっと呼び出すと、熊蔵はきょろきょろしながら出て来た。
「親分。早うござんしたね」
「むむ。急に思いついたことが出来たので、すぐに出て来た。これから田町《たまち》へ案内してくれ」
前へ
次へ
全28ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング