なんとも申し訳がありません」と、澹山は小鬢《こびん》をかいた。「頼まれたお方が余人でないので、せいぜい腕を揮《ふる》おうと思っているのですが、それがため却って筆先が固くなった気味で、まことにどうも困っています。千之丞殿も定めて御立腹、ひいては御推挙くだすったお父さんにも御迷惑がかかろうと心配していますが……」
「なんの、そんなことはございません」と、おげんは相手の顔を見つめながら云った。「あんな人の頼んだ絵など、いっそいつまでも出来ない方がようござります」
この藩の用人荒木|頼母《たのも》の伜千之丞は、伝兵衛の推挙で先ごろ千倉屋へたずねて来て、澹山に西王母《せいおうぼ》の大幅を頼んで行った。その揮毫《きごう》がなかなかはかどらないので、五、六日前にも千之丞はその催促に来た。しかしその催促以外に、なにかの意味でおげんが千之丞を嫌っていることを、澹山もうすうす覚《さと》っていた。
「くどくも云う通り、頼まれたお方が余人でないので、わたくしも等閑《なおざり》には存じません」と、澹山は飽くまでもまじめに云い出した。「しかし、どうも出来ないものは仕方がないので、まあ、まあ、幾たびでも描き直して
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