いた。半七は先ず車湯をたずねて、勘蔵のことを女房にきくと、彼は自身番で医者の手当てをうけて、左の腕をまいて帰って来たが、痛みはなかなか去らないので、ゆうべからそのまま寝ているとのことであった。
「備前屋から見舞にでも来たかえ」と、半七はかさねて訊いた。
「いいえ。一度もたずねて来ないんです」と、湯屋の女房は不平らしく訴えた。「ねえ、おまえさん。備前屋もあんまりじゃありませんか。あんな大きな屋台骨をしていながら、自分の家《うち》のひとり娘を助けて貰った、云わば命の親の勘蔵のところへ一度も見舞によこさないというのは、あんまり義理も人情も知らない仕方じゃありませんか」
 それは勘蔵に対する不義理不人情ばかりでなく、主人の自分に対しても礼儀を知らない仕方ではあるまいかと女房は憤った。それも畢竟《ひっきょう》はこっちが女主人であると思って、備前屋ではおそらく馬鹿にしているのであろうという、女らしい偏執《ひがみ》まじりの愚痴《ぐち》も出た。その偏執や愚痴は別としても、備前屋が今まで素知らぬ顔をしているのは確かに不義理であると半七も思った。
「しかし、備前屋じゃあどさくさ[#「どさくさ」に傍点]まぎ
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