れで、まだその事をよく知らねえんじゃねえか」
「なに、知らないことがあるもんですか」と、女房は鉄漿《おはぐろ》の歯をむき出した。「備前屋の小僧もちゃんとそう云っているんですもの。家のお絹さんは熊に啖《く》われようとするところを、ここの勘蔵さんに助けられたと……。奉公人もみんな知っているくらいですから、主人が知らない筈はありません。だいいち女中だって一緒にいたんじゃありませんか」
「それもそうだな」と、半七は松吉と顔を見あわせた。「なにしろ勘蔵は気の毒だ。おれが行って備前屋に話してやろう。ちょっくら癒《なお》る怪我じゃあねえというから、なんとか掛け合って療治代ぐらい貰ってやらなけりゃあ、当人も可哀そうだし、ここの家でも困るだろう」
「何分よろしく願います。ですけれども、あの備前屋は町内でも名代《なだい》の因業屋《いんごうや》なんですから」
「吝《けち》でも因業でも理窟は理窟だ」と、松吉も口を尖《とが》らした。「そんなのを打っちゃって置くと癖になる。ねえ、親分。これから押し掛けて行って因縁をつけてやろうじゃありませんか」
「無理に因縁をつけるにも及ばねえが、ひと通りの筋道を立てて掛け合って
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