だから」
女房はすこし驚いたように半七の顔を見たが、やがて又笑い出した。
「ほほ、なにもかも御存じなのでございますねえ」
「知っているよ。今もいう通り、すぐ近所に住んでいるんだから」と、半七も笑った。「その一件があるので、あの娘はまだ婿を取らないんだろう。え、そうだろう」
女房は意味ありげに笑っていた。
四
半七にかま[#「かま」に傍点]をかけられて、荒物屋の女房はとうとうおしゃべりをしてしまった。その話によると、お杉は十七の春から吉見の屋敷へ奉公に出ているうちに、病身の妻を持っている主人と一種の関係が結ばれた。そんなことは知らないお杉の両親は、もう年頃になった娘をいつまで奉公させて置くでもない、家へ帰って相当の婿を取らせなければならないというので、忌がる娘を無理に連れて帰ったが、そういう秘密があるので、お杉は容易に婿を取ろうと云わないばかりか、店の手伝いも碌々にしないので、この頃は親子喧嘩が絶えないとのことであった。
「それでもさっきのあの川《かわ》っ縁《ぷち》で大根を洗っていたぜ」と、半七は云った。
「まあ、その位のことはするでしょうけれど……」と、女房はほほえんだ。「ここらにいれば其のくらいのことは当りまえですもの。それで何でも以前の旦那様というのが時々たずねていらっしゃるんですよ」
「あすこの家へ来るのかえ」
「いいえ、親たちは堅い人ですから、そんなことは出来ません。この先の辰さんの家で、ほほほほほ」
いくらか法界悋気《ほうかいりんき》もまじって女房はこんな秘密までもべらべらしゃべった。辰蔵というのは小料理屋の亭主であるが、身持ちのよくない人間で小|博奕《ばくち》も打つ男である。料理屋といっても、家には老母と小女《こおんな》がいるきりなので、お杉はどんなふうに頼み込んだか知らないが、その家を逢い曳《び》きの場所に借りて、ときどきに旧主人に逢っている。それを近所ではみんな知っているが、お杉の親たちは不思議に知らないらしい。知れたらきっとなにかの面倒が起るであろうと女房は仔細らしく話した。
「なるほど、そいつは粋事《いきごと》だね。不動前まで行ったら、もっといい茶屋もあるだろうに……」と、半七は笑った。多寡《たか》が百俵取りで、おまけに道楽者の吉見としては、金廻りが悪いに相違ない。ここらの小料理屋が分相当であるかも知れないと彼は思った。
前へ
次へ
全21ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング