か」
「おいでになりません」と、お杉はきっぱり答えた。
「嘘をついちゃあいけねえぜ。嘘をつくと飛んだことになる。吉見さんは全く来ねえか」
「一度もおいでになりません」
 半七は黙ってお杉の顔色をながめていると、足もとの鶏がだしぬけに時を作ったので、お杉は思わず顔をあげた。その顔はいつか蒼ざめていた。
 おとなしそうに見えてもなかなかに強情らしいので、半七はこの上の詮議は無駄であろうと思った。もちろん彼女を引っ張って行って、表向きに吟味する術《すべ》がないでもないが、町方《まちかた》と違ってここらは郡代《ぐんだい》の支配であるから、公然彼女を吟味するとなれば、どうしても郡代の屋敷へ引っ立てて行かなければならない。そうなると、この事件は明るみへ持ち出されて、たといその鳥のゆくえは判ったとしても、光井金之助らは当然その咎めをうけなければならない。それではなんにもならないと思ったので、半七はひとまずお杉の詮議を切り上げることにした。
「いや、そう判ったらもうそれでいい。お父《と》っさんや阿母《おっか》さんにはこんなことは黙っているがいいぜ」
 お杉は網を逃がれた小鳥のように、早々に会釈して立ち去った。暖簾をはいる彼女のうしろ姿を見届けて、半七は二、三軒先の荒物屋へ寄ると、まだ若い女房が火鉢のまえで継《つ》ぎ物をしていた。
「麻裏はありませんかえ」
「いらっしゃい」と、女房は針をやすめて起って出た。「どうも宜しいのが切れて居りまして……」
「なんでもいい。俄か雨でこの通り泥だらけにしてしまったのだから、何か丈夫そうなのを下さいな」
 どうで気に入ったのは無いと承知の上で、半七はありあわせた麻裏草履を一足買った。かれは店口に腰をかけて、その草履を穿《は》きかえながら訊いた。
「おかみさん。そこの蕎麦屋の娘は雑司ヶ谷に奉公していたんだね」
「よく御存じで……。そうでございますよ」
「わたしもあの辺の者だから知っているんだが、あの娘は御鷹匠の吉見さんの御屋敷に奉公していたんだろう」
「そうでございますよ」と、女房はうなずいた。
「だが、どうして暇を取るようになったのかなあ」と、半七はわざと首をかしげて見せた。「そんな筈じゃあないんだが……」
「お杉さんの忌《いや》がるのを、親たちが無理に下げたのだということでございますよ」
「そうだろう。御新造は病気だし、旦那が暇をくれる筈はないん
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