歳《はたち》の若侍であった。かれは御用の道中で、先月のはじめに江戸をたって駿府へ行った。その帰りに、ゆうべは三島の本陣へ泊ると、道楽者の七蔵は近所を見物するとか云って宿を出て、駅《しゅく》の女郎屋をさがしにゆく途中で、一人の男に声をかけられた。男は三十五六の小粋な商人風で、菅笠を手に持って小さい荷物を振り分けにかついでいた。彼は七蔵を武家の家来と知って呼び止めたのであった。
 男は七蔵になれなれしく話を仕掛けた。ここの駅では何という宿がよいかなどと訊《き》いた。そのうちに男はそこらで一杯飲もうと誘った。渡り者の七蔵は大抵その意味を察したので、すぐに承知して近所の小料理屋へ一緒に行った。ずうずうしい彼は、ひとの振舞い酒を遠慮なしに鱈腹《たらふく》飲んで、もういい心持に酔った頃に、かれを誘った旅の男は小声で云った。
「時に大哥。どうでしょう。あしたはお供をさせて頂くわけには……」
 男は関所の手形を持っていないのである。こういう旅人《たびびと》は小田原や三島の駅にさまよっていて、武家の家来に幾らかの賄賂《わいろ》をつかって、自分も臨時にその家来の一人に加えて貰って、無事に箱根の関を越そうと
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