ら、ことしの今まで顔出しもしなかったのである。
「ちげえねえ。小森さんの屋敷の七蔵か。てめえ、渡り者のようでもねえ、あんまり世間の義理を知らねえ野郎だ」
「だから今夜はあやまっている。大哥、拝むから助けてくんねえ」
「てめえに拝み倒されるおれじゃあねえ。嫌だ、嫌だ」
多吉は強情に跳ね付けているのを聞きかねて、半七は口を出した。
「まあ、そう色気のねえことを云うなよ。そこで、七蔵さんという大哥はわたし達になんの用があるんです。わたしは神田の半七という者です」
「やあ、どうも……」と、七蔵はあらためて会釈《えしゃく》した。「親分、後生だから助けておくんなせえ」
「どうすりゃあお前さんが助かるんだ」
「実は旦那が私を手討ちにして、自分も腹を切るというんで……」
「ふむう」
これには半七もおどろかされた。どんな事情があるか知らないが、武士が家来を手討ちにして自分も腹を切る、それは容易ならないことだと思った。多吉もさすがにびっくりして、行儀の悪い膝を立て直して云った。
「まあ蚊帳《かや》へはいれ。一体そりゃあどういう理窟だ」
二
七蔵の主人の小森市之助というのは、今年まだ二十歳《はたち》の若侍であった。かれは御用の道中で、先月のはじめに江戸をたって駿府へ行った。その帰りに、ゆうべは三島の本陣へ泊ると、道楽者の七蔵は近所を見物するとか云って宿を出て、駅《しゅく》の女郎屋をさがしにゆく途中で、一人の男に声をかけられた。男は三十五六の小粋な商人風で、菅笠を手に持って小さい荷物を振り分けにかついでいた。彼は七蔵を武家の家来と知って呼び止めたのであった。
男は七蔵になれなれしく話を仕掛けた。ここの駅では何という宿がよいかなどと訊《き》いた。そのうちに男はそこらで一杯飲もうと誘った。渡り者の七蔵は大抵その意味を察したので、すぐに承知して近所の小料理屋へ一緒に行った。ずうずうしい彼は、ひとの振舞い酒を遠慮なしに鱈腹《たらふく》飲んで、もういい心持に酔った頃に、かれを誘った旅の男は小声で云った。
「時に大哥。どうでしょう。あしたはお供をさせて頂くわけには……」
男は関所の手形を持っていないのである。こういう旅人《たびびと》は小田原や三島の駅にさまよっていて、武家の家来に幾らかの賄賂《わいろ》をつかって、自分も臨時にその家来の一人に加えて貰って、無事に箱根の関を越そうと
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