(午後十時)に近い頃であった。
「御町内はこのごろ物騒だというから、途中もよく気をつけてな」と、帰りぎわに医者が云った。
 その親切な注意が二人の胸にはまた一入《ひとしお》の寒さを呼び出した。帰り途にも佐兵衛は手を引かれて歩いた。
「木戸の締まらないうちに早く行こう。番太にあけて貰うのも面倒だから」
 風もない、月もない、霜の声でもきこえてきそうな静かな夜であった。町内にももう灯のかげは疎《まば》らであった。佐兵衛は下腹をおさえながら屈《こご》み勝ちにあるいていた。二人は町内にはいって二、三軒も通り過ぎたかと思うと、質屋の天水桶のかげから何かまっ黒な影があらわれた。それが何であるかを認める間もなしに、その黒い物は地を這うように走って来て、いきなり佐兵衛の足をすくった。屈んでいた彼はすぐに滑って倒れた。ふだんからおびえていた伝七はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と云って逃げ出した。
 この臆病者の報告を聴いて、長作は棒を持ってこわごわ出て来た。伝七も得物《えもの》をとって再び引っ返して来たが、もうその時には黒い物の影も見えなかった。佐兵衛は転んだはずみに膝を痛めた。まだそのほかに、相手にぶた
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