総領息子の角太郎が早野勘平を勤めることになった。角太郎はことし十九の華奢《きゃしゃ》な男で、ふだんから近所の若い娘たちには役者のようだなどと噂されていた。若旦那の勘平は嵌《はま》り役だと、見物の人たちにも期待された。
 舞台では喧嘩場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終って、六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎであった。幾分はお追従《ついしょう》もまじっているであろうが、若旦那の勘平をぜひ拝見したいというので、この前の幕があく頃から遅れ馳せの見物人がだんだんに詰めかけて来た。燭台や火鉢の置き所もないほどにぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]押し詰められた見物席には、女の白粉や油の匂いが咽《む》せるようによどんでいた。煙草のけむりも渦をまいてみなぎっていた。男や女の笑い声が外まで洩れて、師走の往来の人の足を停めさせるほど華やかにきこえた。
 併しこの歓楽のさざめきは忽ち哀愁の涙に変った。角太郎の勘平が腹を切ると生々《なまなま》しい血潮が彼の衣裳を真っ赤に染めた。それは用意の糊紅《のりべに》ではなかった。苦痛の表情が凄いほどに真に迫っているのを驚嘆していた見物は、かれが台
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