悪夢を呼び起すに堪えないように、唯さめざめと泣いているばかりであった。この二、三日の春めいた陽気にだまされて、どこかで籠の鶯が啼いているのも却って寂しい思いを誘われた。
 お冬の胸に燃えていた恋の火は、灰となってもう頽《くず》れてしまったのかも知れない。彼女は過去の楽しい恋の記憶については、何も話そうとしなかった。しかし惨《みじ》めな彼女の現在については、不十分ながらも半七の問いに対してきれぎれに答えた。旦那やおかみさんは自分に同情して、勿体ないほど優しくいたわってくださると彼女は語った。店の人達のうちでは和吉が一番親切で、けさから店の隙を見てもう二度も見舞に来てくれたと語った。
「じゃあ、今も見舞に来ていたんだね。そうして、どんな話をしていたんだ」と、半七は訊いた。
「あの、若旦那がああなってしまっては、このお店に奉公しているのも辛いから、わたしはもうお暇を頂こうかと思うと云いましたら、和吉さんはまあそんなことを云わないで、ともかくも来年の出代りまで辛抱するがいいとしきりに止めてくれました」
 半七はうなずいた。
「いや、有難う。折角寝ているところを飛んだ邪魔をして済まなかった。まあ
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