、杖をついて、ようよう近所を歩くくらいのことしか出来なくなったので、世間ではよい辰[#「よい辰」に傍点]といっているんです。それでも娘がいい旦那をつかまえているので、まあ楽隠居のような訳だったのですが、その金箱《かねばこ》が不意にこんなことになってしまっては、お父《とっ》さんもさぞ力を落しているでしょうよ。若い時からずいぶん人を泣かせているから、年を取ってこうなるのは当り前だなんぞと言う人もありますけれど、なにしろ自分はよいよいになって、稼ぎ人のむすめに死なれたのですから、まったく気の毒ですよ。むすめの名ですか。娘はお春といって、芸妓に出ているときは小春といっていたそうです。小春が治兵衛と心中しないで、青大将を冥途の道連れじゃあ、あんまり可哀そうじゃありませんか。」
 おかみさんは他人事《ひとごと》だと思って、笑いながら話していましたが、わたくしはその一言一句を聞きはずすまいと、一生懸命に耳を引っ立てていました。
「人の噂ですから、確かなことは判りませんがね。」と、おかみさんはまた言いました。「なんでもそのお春という女には内所の色男があって、きのうもそこへ逢いに行く途中で、あんなことに
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