いうのは、今まで一度も見たこともなし、そんな噂を聞いたこともありません。さっきの夕立の最中に、お定はどこにどうしていたのでしょう。それを思うと、わたくしはまたむやみに悲しくなりました。
母はまたこんなことをささやきました。
「今、帰る途中で聞いたらば、さっきの死骸は自身番へ運んで行ったが、まだ御検視が済まないそうだよ。」
「どこの人でしょうねえ。」
「それは判らないけれども……。おまえ、決してうっかりした事を言っちゃあいけないよ。誰に訊かれても黙っているんだよ。叔父さんと一緒に歩いていたなんぞと言っちゃあいけないよ。」と、母は繰返して口留めをしました。
うっかりしたことを言って、それが飛んでもない係り合いになって、町奉行所の白洲《しらす》へたびたび呼出されるようなことがあっては大変ですから、母は堅く口留めをするのでございます。幾度もおなじことを申すようですが、まったくその時のわたくしは怖いような、悲しいような、なんともいえない心持でございました。
五つ(午後八時)過ぎになって、母は再び会津屋へ出て行きましたが、お定の行くえはやはり知れません。叔父も帰って来ないのでございます。とい
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