古もお午《ひる》ぎりで、わたくしもお隣りの家から借りて来た草双紙《くさぞうし》などを読んで半日を暮らしてしまいました。夕方になって、表へ水を撒いたりして、それから近所の銭湯へ行って帰って来ると、表はもう薄暗くなって、男の子供たちが泥だらけの草鞋《わらじ》をほうりながら横町で蝙蝠《こうもり》を追いまわしていました。粗相か悪戯《いたずら》か、時どきにその草鞋がわたくし共の顔へも飛んで来ますので、わたくしはなるべく往来のはしの方を通って、路地の口から裏口へまわりますと、表でさえも暗いのに、家のなかにはまだ燈火《あかり》もつけていないらしく、そこらには藪蚊《やぶか》の唸る声が頻りにきこえます。
「おや、おっかさんはいないのかしら。」
そう思いながら台所から上がりかかると、狭い庭にむかった横六畳の座敷に、女の話し声がきこえます。それは確かに会津屋の叔母の声で、なんだか泣いているらしいので、わたくしは思わず立ちどまりました。叔母が話しているようでは、母も家にいるに相違ありません。二人は何かの話に気を取られて行燈《あんどう》をつけるのも忘れて、暗いなかで小声で話しているのをみると、これはどうも唯事《ただごと》ではあるまいと、年のゆかないわたくしも迂濶《うかつ》にはいるのを遠慮しました。そうして、お竈《へっつい》のそばに小さくなって奥の様子を窺っていますと、もともと狭い家ですから奥といっても鼻のさきで、ふたりの話し声はよく聞き取れます。叔母は小声で何か言いながらすすり泣きをしているようです。母も溜息をついているようです。どう考えても唯事ではないと思うと、わたくしも何だか悲しくなりました。そのうちに、話も大抵済んだとみえて、叔母は思い出したように言いました。
「まあちゃんまだ帰らないのかしら。」
まあ[#「まあ」に傍点]ちゃんというのはわたくしの名で、お政というのでございます。それを切っかけに、顔を出そうか出すまいかと考えていますと、叔母はすぐに帰りかかりました。
「おや、いつの間にかすっかり夜になってしまって……。どうもお邪魔をしました。」
「ほんとうにあかりもつけないで……。」と、母も入口へ送って出るようです。
その間にわたくしは茶の間にはいって行燈をつけました。叔母は格子をあけて出てゆく。母は引っ返して来て、わたくしがいつの間にか帰って来ているのに少し驚いているようでした
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