「おまえ、叔母さんの話をきいていたかえ。」
「声はきこえても、何を話しているのか判りませんでした。」
 わたくしは正直に答えたのですが、母はまだ疑っているようでした。そうして、たとい少しでも立ち聴きをされたものを、なまじいに隠し立てをするのは却《かえ》ってよくないと思ったらしく、小声でこんなことを言い出しました。
「おまえも薄うす聞いたらしいけれど、叔母さんの家《うち》にも困ることがあるんだよ。」
 それは叔母さんの泣き声で大抵は推量していましたが、その事件の内容はちっとも知らないのでございます。わたくしは黙って母の顔をながめていますと、母は小声でまた話しつづけました。
「わたしもその事は薄うす聞いていたけれど、叔父さんはこのごろ何か悪い道楽を始めたらしいんだよ。商売《あきない》の方はそっちのけにして、夜も昼もどこへか出歩いている。この節は世間が騒々しくなって、刀屋の商売はどこの店も眼がまわるほど忙がしいという最中に、商売ごとは奉公人まかせで、主人は朝から晩まで遊び歩いていちゃあ仕様がないじゃないか。遊び歩くという以上、どうで碌なことはしないに決まっているし、叔父さんは随分お金を遣うそうで、叔母さんは大変に心配しているんだよ。」
「どこへ遊びに行くんでしょう。」と、わたくしは訊きました。
「どうも新宿の方へ行くらしいんだよ。」
 母は思い出したように、昼間の女のことを詳しく訊きかえしました。その女は新宿の芸妓かなにかで、叔父はそれに引っかかっているのだろうと、母は推量しているらしいのです。わたくしも大方そんなことだろうと思いました。商売を打っちゃって置いて、毎日遊び歩いてお金を遣って、叔父さんの家はどうなるだろう。そんなことを考えると、わたくしはいよいよ心細いような、悲しいような心持になりました。
「ふうちゃんもまだ若いからね。」と、母はひとり言のようにいって、また溜息をつきました。
 ふう[#「ふう」に傍点]ちゃんというのはわたくしの兄の房太郎のことで、前に申す通り、まだ十九で、奉公中の身の上でございます。何につけても頼りにするのは会津屋の叔父ひとり、その叔父がそういう始末ではまったく心細くなってしまいます。母が溜息をつくのも無理はありません。わたくしも涙ぐまれて来ました。
「それにね。」と、母はまたささやきました。「叔父さんはこのごろ妙に気があらくなって、家
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