、別に謙遜の意味でも何でもございません。まつたく文字通りのお供に相違ないのでございます。と云ふのは、水沢継子さんの阿兄《おあにい》さん――継子さんもそう云つてゐますし、わたくし共も矢はりさう云つてゐましたけれど、実はほんたうの兄《あに》さんではない、継子さんとは従兄妹《いとこ》同士で、ゆく/\は結婚なさるといふ事をわたくしも予《かね》て知つてゐたのでございます。その阿兄さんのところへ尋ねて行く継子さんはどんなに楽《たのし》いことでせう。それに附いて行くわたくしは、どうしてもお供といふ形でございます。いえ、別に嫉妬《やきもち》を焼くわけではございませんが、正直のところ、まあそんな感じが無いでもありません。けれども、又一方にはふだんから仲の好い継子さんと一緒に、たとひ一日でも二日でも春の温泉場へ遊びに行くといふ事がわたくしを楽ませたに相違ありません。
殊《こと》にその日は三月下旬の長閑《のどか》な日で、新橋を出ると、もうすぐに汽車の窓から春の海が広々とながめられます。わたくし共の若い心はなんとなく浮立つて来ました。国府津《こうづ》へ着くまでのあひだも、途中の山や川の景色がどんなに私《わた
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