顔色をうかゞひながら丁寧に挨拶《あいさつ》してゐました。
わたくしは人車《じんしゃ》鉄道に乗つて小田原へ着きましたのは、午前十一時頃でしたらう。好い塩梅《あんばい》に途中から雲切れがして来まして、細《こまか》い雨の降つてゐる空の上から薄い日のひかりが時々に洩《も》れて来ました。陽気も急にあたゝかくなりました。小田原から電車で国府津に着きまして、そこの茶店《ちゃみせ》で小田原|土産《みやげ》の梅干を買ひました。それは母から頼まれてゐたのでございます。
十二時何分かの東京行列車を待合せるために、わたくしは狭い二等待合室に這入《はい》つて、テーブルの上に置いてある地方新聞の綴込《とじこ》みなどを見てゐるうちに、空はいよ/\明るくなりまして、春の日が一面にさし込んで来ました。日曜でも祭日でもないのに、けふは発車を待ちあはせてゐる人が大勢ありまして、狭い待合室は一杯になつてしまひました。わたくしはなんだか蒸暖《むしあった》かいやうな、頭がすこし重いやうな心持になりましたので、雨の晴れたのを幸ひに構外の空地《あきち》に出て、だん/\に青い姿をあらはしてゆく箱根の山々を眺めてゐました。
そのうちに、もう改札口が明いたとみえまして、二等三等の人達がどや[#「どや」に傍点]/\と押合つて出て行くやうですから、わたくしも引返《ひっかえ》して改札口の方へ行きますと、大勢の人たちが繋《つな》がつて押出されて行きます。わたくしもその人達の中にまじつて改札口へ近づいた時でございます。どこからとも無しにこんな声がきこえました。
「継子さんは死にました。」
わたくしは悸然《ぎょっ》として振返りましたが、そこらに見識つたやうな顔は見出《みいだ》されませんでした。なにかの聞き違ひかと思つてゐますと、もう一度おなじやうな声がきこえました。しかもわたくしの耳のそばで囁《ささや》くやうに聞えました。
「継子さんは死にましたよ。」
わたくしは又ぎよつとして振返ると、わたくしの左の方に列《なら》んでゐる十五六の娘――その顔容《かおだち》は今でもよく覚えてゐます。色の白い、細面《ほそおもて》の、左の眼《め》に白い曇りのあるやうな、しかし大体に眼鼻立《めはなだち》の整つた、どちらかといへば美しい方の容貌《ようぼう》の持主で、紡績飛白《ぼうせきがすり》のやうな綿衣《わたいれ》を着て紅いメレンスの帯を締めてゐました。――それが何だかわたくしの顔をぢつ[#「ぢつ」に傍点]と見てゐるらしいのです。その娘がわたくしに声をかけたらしくも思はれるのです。
「継子さんが歿《なく》なつたのですか。」
殆《ほとん》ど無意識に、わたくしは其《その》娘に訊《き》きかへしますと、娘は黙つて首肯《うなず》いたやうに見えました。そのうちに、あとから来る人に押されて、わたくしは改札口を通り抜けてしまひましたが、あまり不思議なので、もう一度その娘に訊き返さうと思つて見返りましたが、どこへ行つたか其姿が見えません。わたくしと列んでゐたのですから、相前後して改札口を出た筈《はず》ですが、そこらに其姿が見えないのでございます。引返《ひっかえ》して構内を覗《のぞ》きましたが、矢はりそれらしい人は見付からないので、わたくしは夢のやうな心持がして、しきりに其処《そこ》らを見廻しましたが、あとにも先にも其娘は見えませんでした。どうしたのでせう、どこへ消えてしまつたのでせう。わたくしは立停《たちどま》つてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と考へてゐました。
第一に気にかゝるのは継子さんのことです。今別れて来たばかりの継子さんが死ぬなどといふ筈がありません。けれども、わたくしの耳には一度ならず、二度までも確《たしか》にさう聞えたのです。怪しい娘がわたくしに教へてくれたやうに思はれるのです。気の迷ひかも知れないと打消しながらも、わたくしは妙にそれが気にかゝつてならないので、いつまでも夢のやうな心持でそこに突つ立つてゐました。これから湯河原へ引返して見ようかとも思ひました。それもなんだか馬鹿《ばか》らしいやうにも思ひました。このまゝ真直《まっすぐ》に東京へ帰らうか、それとも湯河原へ引返さうかと、わたくしは色々にかんがへてゐましたが、どう考へてもそんなことの有様《ありよう》は無いやうに思はれました。お天気の好い真昼間《まっぴるま》、しかも停車場の混雑のなかで、怪しい娘が継子さんの死を知らせてくれる――そんなことのあるべき筈が無いと思はれましたので、わたくしは思ひ切つて東京へ帰ることに決めました。
その中《うち》に東京行の列車が着きましたので、ほかの人達はみんな乗込みました。わたくしも乗らうとして又|俄《にわか》に躊躇《ちゅうちょ》しました。まつすぐに東京へ帰ると決心してゐながら、いざ乗込むといふ場合になると、不思議に継
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